「短期集中連載・第3回 あえて言う“後期高齢者医療制度”は絶対に必要だ」
『週刊新潮』’08年7月17日号
日本ルネッサンス・拡大版 第321回
【短期集中連載・第3回】老人医療費「無料化」が諸悪の根源
社会を統合し、ひとつの国としての纏りを保つ力は何なのだろうか。ほぼ世界一、格差が小さく、ほぼ全員が低い自己負担で医療を受け、ほどほどに豊かに暮らせる日本の社会は何によって担保されているのか。
かつて社会の基盤を成したのは家族の絆だった。いま、その役割を果たしているのは社会保障制度ではないか。そう強調するのが静岡県立大学経営情報学部長の小山秀夫氏だ。氏は、国立保健医療科学院の元経営科学部長でもある。
「医療保険、年金、労災、雇用保険、介護保険、生活保護……これらなしには、現代の日本人はバラバラになります。社会保障は社会という扇の要なのです。社会保障があるからこそ、都市と地方、若者と老人などの格差が乗り切れるのです」
氏は高齢者医療問題の処理によっては、扇の要のひとつが崩壊し兼ねないと警告する。一旦制度化した後期高齢者医療制度を、元に戻す動きさえ生まれているが、そうなれば社会連帯そのものが崩壊する危険性が高いと懸念するのだ。
他方、医師の横内正利氏は、外来、入院まで、患者をずっと継続して診ることが出来ると考えて、9年前にいずみクリニックに院長として赴任した。しかし、この間に事情は急速に変わり、国民と社会が医療に期待する水準は際立って高くなった。最先端の技術を駆使してほぼ完璧な医療が要求される社会状況が醸成され、医療費は高騰し、医師の責任も厳しく問われ始めた。そうした状況に対処するため、医師は万全の医療を行おうとする。そして医療費はさらに高騰する。
横内氏は、高齢者医療問題を、まずコスト削減の見地で論ずること自体が間違いだと強調するが、それでも重い財政負担を誰が担うかが深刻な問題であるのは事実だ。小泉内閣で法制化された後期高齢者医療制度はまさに、財政負担を軸に立案された。
75歳以上の人々を切り離した同制度は、横内氏のような誠実な医師からさえも強い反発を買ったが、同制度はいかなる必然性があって作られたのか。それを知るには、日本の医療と社会保険が辿ってきた戦後史の検証が必要だ。
戦後、医療行政は量の拡大から出発した。太平洋戦争が始まった1941年、日本には3,354施設の一般病院があった。敗戦直後の1945年、病院数は431施設まで激減、病床数は1万9,907床、絶対的に不足していた。病院と病床を増やし、医療を求める国民に割り当てていくことが急務だった。政府は努力し、病院数は2年後、3,303施設まで増加した。
当時すでに医療保険制度はあったが、加入者は国民の約6割にとどまり、4割の約3,000万人が無保険だった。医事評論家の行天良雄氏が当時を振りかえる。
「当時はお腹がへってへって仕方がない。食べるものはない。私は大正15年生まれですが、小学1年生の時に、1クラス30~40人いた同級生が、6年生の時には1割以上は亡くなっていた。死因の1位は結核、2位は疫痢や赤痢、腸チフスなどの伝染病と栄養失調です。皆、いまでは滅多に死ぬことはない病気ですが、これらで皆死んでいった。強烈な淘汰があったのです」
重い病気にかかって、生き延びるのは゛ラッキー〟だったというのである。
「そもそも医者にかかること自体、大変でした。医師はいまよりずっとステータスがあり、往診料も高かった。貧しい人は病気になると実家や友人から必死でお金を集めた。或いは支払いを待ってくれる赤ひげ先生の所に行ったのです」
戦後の医療改革に主導的な役割を果たしたのは、占領軍のエリート集団だった。彼らは病が貧困を呼び、貧困が病を呼ぶ悪循環を理解していた。また東西陣営の対立が深まる中で、日本を「不沈空母」とする思惑もあり、日本を必死に立て直そうとした。行天氏が語る。
「いつでも、どこでも、誰でも、わずかな負担で、医療を受けられる保険制度というロマンを、彼らは追い求め、自国のアメリカにもない国民皆保険制度を敷くことにしたのです。彼らは1950年の朝鮮動乱に伴って、左遷され、日本を去りましたが、日本国の厚生官僚たちが、その夢を引き継ぐ形で奮闘したのです」
サロン化する病院
無保険者の救済を最大の課題ととらえ、医療制度が検討された。その結果、病気になったときに、国民が皆で助け合っていく制度を選択した。1956年、鳩山内閣が4カ年計画を策定し、1961年、世界に類を見ない国民皆保険制度が船出した。医療費は年々、増加したが、日本の高度経済成長期の税収がそれをしっかりと下支えした。
次の転換点は70年代初頭である。72年に首相となった田中角栄は「日本列島改造論」をぶち上げ、翌年、老人医療無料化に踏み切った。小山氏が解説する。
「当時、国民健康保険に加入すれば、3割が自己負担で7割が保険でした。東京には美濃部亮吉知事の、京都には蜷川虎三知事の革新自治体があり、自民党は放置すれば革新勢力に政権を奪取されると恐れていた。そこで、国債を発行し、医療分野にも充当して老人医療費無料化が実現したのです」
ほぼ同時に、老人以外でも高額療養費制度が取り入れられた。3割負担の原則は変わらないが、ひと月に3万円以上の医療費がかかった場合は、超過分は全額、保険負担となった。結果、改革前年の1972年度に3兆3,900億円だった国民医療費が、改革翌年度は、5兆3,700億円に増えた。
厚労省の政策を見続けてきたハンディネットワークインターナショナル社代表の春山満氏は、老人医療費無料化が日本の医療制度が道を誤った原点だと見る。
「無料化に喜んだのは当の老人よりも、むしろ医師会や病院会でした。しかも、当時は出来高払いです。無料ですから患者にはなんの経済負担もありません。出来高払いですから、病院は医療を施せば施すほど、収入が増します」
全国各地の病院が老人たちのサロンとなったのはこの頃だという。
「連日、病院の外来受付がお年寄りで溢れ、その日、姿を見せなかった知り合いのことを、〝あの人、こないわねぇ〟、〝そうねぇ、どっか、お体の具合が悪いのかしら〟と、噂するといった笑い話が生まれたのです。帰ろうとして、次のバスまで時間が空いていると、〝じゃあ、電気でも、あたっていく?〟と。必要か否かは考えず、理学療法を受けていくかと問うような病院の在り方が、医療費をとめどなく押し上げてきたのです」
春山氏は、この頃は、病院にとってはドル箱を積み上げるような時代だったと指摘する。出来高払いの医療制度の下では、処置をすればするほど利益が上がる。氏はこれを、やぶ医者ほど儲かるシステムだと喝破する。
「料金の取りはぐれもなく、患者や家族、つまりお客にNOと言われることもなく、病院は経済感覚のまるでない仕事をしても成り立つおいしい商売だった。ところが、70年代後半、このまま医療費が高騰していくと、国が持たないと、厚生省が気づきました」
高齢化率と少子化率のシミュレーションから、やがて医療費の総額が80兆円にも達することを警戒した厚生省は、1982年、「老人保健法」を制定し、老人医療費の無料化をやめ、わずかながら、有料化した。当初は、何度診察を受けても一カ月400円。そして、その後、段階的に引き上げられていった。
「同時に、すでに作られすぎていた病院の増加を防ぐために、それまで制限がなかった病床数に、2年程度の猶予期間を設けた上でストップをかけました」と春山氏。
野放しの医療費への抑制政策が初めてとられたのだ。
だが、厚生省の思惑はあっさりと裏切られた。
「厚生省の裏をかいたのは病院会です。今なら開業できると、全国で駆け込み建設が行われ、病院がさらに急増しました。しかし、患者がそれほど集まるわけではなく、中小の病院は経営が成り立たない。そこで、経営者は、お年寄りに目を付けた。秋口に風邪をひいた独居のお年寄りがいるとします。医者は、゛ちょっと様子を見て、2~3日入院しましょう〟と言うのです。しかし、2~3日過ぎても退院させません。まだまだ、ベッドが空いていますから、゛息子さんは東京でしょう。独り暮らしなら、ここに春までいませんか〟と勧めるわけです。ちょうど、日本の核家族化が叫ばれた時期で独居老人は地方にたくさんおりました。老人はありがたがって、冬の間は病院で過ごし、その後も亡くなるまで暮らし続けたのです。この頃から全国の中小病院は高齢者の越冬施設となり、経営破綻することなく、命をつないだのです」と春山氏。
医療と介護の分離へ
厚生省はそれでも、二の矢、三の矢を放った。
「既に全国の中小病院では、65歳以上の患者の長期入院ベッド数が、病院全体の60%を超えていましたが、その中でも高齢者に特化した病院を、特例許可老人病院として、一般の病院と分離しました。さらにその後、厚生省は、介護力強化病棟として、医者や看護婦の数を減らしてもよい代わりに、介護担当職員を増やして療養体制を整備させた病棟へと誘導しました。ここで厚生省は、初めて、入院療養費の定額払いを導入しました。ベッド代、食事代も入れて、比較的安定運営する水準を提示したのです。経営者は、それで経営は本当に成り立つのかと、おそるおそる、介護力強化病棟へと衣替えした。そして、思いの外、安定収益を得始めました」
この種の巧みな経済誘導で一般病院を介護力強化病棟に転換させた厚生省が次に考えたのが、療養型病床群(01年の法改正で「療養病床」に移行)だった。
春山氏は、厚生省は一連の誘導で病院にメスを捨てさせ、介護に向かわせたと解説する。
「2000年から介護保険も始まりました。医療と介護のさらなる分離です。すでに、介護型療養病床の11年度末までの廃止と、医療型の削減も決まっています。この20年間の流れを振り返ると、医療と介護がどのように一体化し、その弊害ゆえに今また分離されつつあるか、はっきりと見えます。このプロセスを一言で言えば、厚生省が、増えすぎた病院をハレーションなく解体する巧みな戦略と言えるでしょう」
そしていま、私たちが直面するのが後期高齢者医療制度だ。小泉首相は06年の「骨太の方針」で2011年にはプライマリーバランスをゼロにすると公約、「もはや、教育も医療も聖域ではない」と宣言した。
では、小泉首相がそう叫ぶ前に、後期高齢者医療制度に至る道筋で、どんな議論が交わされたのか。同制度に関する論文を書いた東京医科歯科大大学院の川渕孝一教授が当時を振りかえった。
「国民皆保険制度にほころびが見え始めたのは、医療費の高騰、未曾有の少子化、高齢化社会の到来という3つの要因からです。これを医療の三重苦と表現してもいいでしょう。高齢化すれば医療費は増えますが、負担する人は減っていく。それで高齢者にも負担をお願いしようというのが後期高齢者医療制度の原点でした」
同制度が必要となったのは、今年3月まで存続していた75歳以上を対象とした老人保健制度の行き詰まりだったと川渕氏は語る。
老人保健制度は、世代間で老人医療費を負担する仕組みだ。高齢者の大半は国民健康保険に入っているが、一番多いときで、国保への税金注入は45%、サラリーマンが加入する被用者保険から老人医療に出す拠出金などを含めると、現役世代が高齢者医療費の6割以上を負担するケースもあり、現役世代の反発は強かった。
「顔を見たこともない老人のためになぜ、という疑問に加えて、将来の負担がどれほどになるかという不安もあって、やめることになったのです」
代替策が必要となり、01年から厚労省、日本医師会、経団連、連合、市長会、町村会、健保連などの団体が議論したが、ついに纏らなかった。結果として、シンポジウムやらロビー活動やらで、互いを叩きあい、兵どもが夢のあとといった印象で作り上げられたのが、「顔はライオン、尻尾は魚のような」医療制度改革だったと川渕氏は語る。
「例えば、どの年齢で線引きをするかについて、日本医師会は75歳、経団連は65歳以上を主張していました。その妥協案の結果が、前期と後期、二つの、高齢者医療制度の導入に反映されているのです。一方、国保中央会や市長会、町村会は年齢の問題とは別に、国保の負担減を主張していました。まさに、゛百家争鳴″でした」
地味でも着実な改革
慶応大学大学院で医療経済学を教える田中滋教授も語る。
「国が定める制度は、基本的に妥協の産物です。どの国のどんな制度でも、100点満点で、60~70点あれば、制度はうまく回るものです。医療制度は特に利害関係者が多い。サービスを提供する医師や看護師、サービスを受ける患者や家族、病院経営者、厚労省、労働組合、財務省など、多くの人々や組織が関わります。患者にとって100点の制度が、医師会には20点かもしれない。その逆もあり得る。だから弱点をあげつらうことは、いくらでも出来る。しかしその種の批判はあまり、意味がない。後期高齢者医療制度は、40点が60点になったのと同じ改革、学生の成績がCからBになったもので、地味ですが、着実な改革ではあるのです」
後期高齢者医療制度がつぎはぎだらけだとしても、つぎはぎの向こうにある本質論に目をつぶる余裕は、現在の日本にはない。制度改革なしには、次世代の日本に明るい展望はないと、春山氏が強調する。
「私たちは、病院はほとんど無料。いつでも、どこでも、最期まで、面倒を見てくれると考えてきました。ただ、これは大きな間違いです。誰が病院で死んでいきたいんですか。なぜこんなに日本人は老いに無防備なのですか。今回の制度改革を、老いはあなたの人生の総仕上げとして、自分らしく自己責任と自己選択で生き抜く日本人への警鐘と考えてはどうでしょう」
自分たちの生き方や死に方は、基本的に自分たちが考える。私たちがそう決心したとき、国民不在の制度設計を、真に国民が必要とする制度に変えていくことが出来るのではないだろうか。そうした考えを深めるためにも、後期高齢者医療制度について冷静に考えたい。