「 日本の翼が世界を飛ぶ日 」
『週刊新潮』 2007年8月16・23日合併号
日本ルネッサンス 第276回
「 日本の翼が世界を飛ぶ日 」
8月4日の『読売新聞』朝刊に思わず期待したくなる記事が報じられていた。日本航空が、三菱重工業が開発中の国産機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」数十機の購入を検討しているとの報道だ。
MRJは、就航の暁には、戦後、日本の航空関係者が悲願としてきた国産ジェット旅客機の第一号となる。多くの航空ファンにとって、名前を聞いただけで胸がキュンとしめつけられるようなあのYS-11以来、日本は自前の航空機を作ってこなかった。しかし、MRJがその空白を埋めてくれるだろう。
MRJは70~90席、開発費は1,200億円、総事業費は3,000億乃至4,000億円と見込まれている。この大規模投資の採算をとるには、総受注数は少なくとも350機が必要と言われる。日本航空の数十機の発注見込みは、MRJ製造に向けての大きなはずみになりそうなのだ。
MRJの実物大の機体の一部が、今年6月18日に開幕したパリの国際航空宇宙ショーに展示された。日本の技術をフルに活かした炭素繊維の複合材の使用で機体は軽量化され、競合他社の航空機より燃費性能は20%は高いと期待されている。
MRJに積み込むジェットエンジンは、すでに英国のロールス・ロイス、米国のゼネラル・エレクトリック、同じく米国のプラット・アンド・ホイットニーの世界三大メーカーから提案を受けている(『日本経済新聞』07年6月12日朝刊)。三大メーカーの売り込みは、MRJに対する信頼と期待の表明でもある。
現在、MRJクラスの小型ジェット機市場はブラジルのエンブラエル社とカナダのボンバルディア社がほぼ二分しているが、この市場に日本はようやく、参入しようとしているのだ。無論、市場参入を狙うのは中国もロシアも同様である。特に、中国の国有企業は今年中にも一号機を完成させ、09年に就航予定だ。
戦後復興の象徴、YS-11
日本以外の国々では、戦闘機などの軍需産業分野での開発が、民間機開発の支柱となっているのが殆どだ。航空機産業の背景には国家が存在するのだが、日本にはそれがない。そのためにMRJに関しては特定目的会社の設立案も浮上している。官民共同、かつオールジャパンの形で資金を集め、三菱重工が中心になって開発、量産、販売する仕組みだ。国の補助金も民間企業の出資も、航空機販売の利益から返済していく計画だ。全て順調にいけば、MRJは、今から5年後の2012年に就航する。
それにしても、日本は多くの産業分野で世界のトップクラスを占めてきたのに、なぜ、航空機産業だけ、真空地帯のような空白が続いてきたのか。YS-11の開発と生産の経過をふりかえると、その理由が見えてくる。
60人乗りの双発プロペラ機、YS-11の光る機体は1962年8月30日午前7時30分、朝霞のなか名古屋空港を飛び立った。この試作機第一号は高度5,000フィート(約1,500メートル)で伊勢湾上空を飛び、性能をチェックし、無事名古屋空港に舞い降りた。飛行時間は55分間だった(『YS-11物語』「航空ジャーナル」別冊、航空ジャーナル社)。
通常、新しい飛行機は数百の試験項目を出来るだけ早く終了して型式証明をとり量産に入るために4乃至5機の試験機を駆使する。だがあの時、日本はまだ貧しかった。59年に設立された半官半民の日本航空機製造株式会社の予算も限られていた。飛行試験機は2機が精一杯で、YS-11の性能テストはたった2機で行われたのだ。
戦争に敗れ、航空機も船も、日本はその殆ど全てを失った。しかも航空機も大型船も、造ることさえ禁じられた。禁が解けたのは1952年、日本が主権を回復したときだ。
それでも日本は容易に航空機産業に乗り出さなかった。航空機製造を軍需産業と同一視する傾向があったからだ。事実、1950年の朝鮮戦争と米軍特需で日本は潤ったが、そのとき米軍機の点検、修理をはじめ、米国用の軍事物資を日本で生産する体制作りを目指した勢力があった。それは米軍であり、日本の通産省(当時)でもあった。一方で、経済の柱を軍事産業に置くことに反対する意見も根強く、議論は政財界を二分した。
長期展望で国産機の製造を
こうした中、軍用機ではなく純粋な民間機の開発企画が提言され、1957年、「輸送機設計研究協会」が設立されたのだ。ちなみにYS-11のYSは“輸送機設計”のイニシャルからとったものだそうだ。
YS11のエンジンは、いまMRJにも名乗りを上げているロールス・ロイス社のダート10、プロペラはダウティ・ロートル社製だったが、基本設計から詳細設計、製造まで、YS-11はオールジャパンの編成で行われた。中心を担ったのは新三菱重工であり、川崎航空機、富士重工、新明和工業などが重要部分を分担した。
基本設計から約3年、試作機第一号の飛行は前述のように成功した。さらに2年後の64年、東京オリンピックの年に量産体制に入った。日本は国をあげてYS-11を活用した。政府は行政指導で民間航空会社にYS-11を購入させ、自衛隊も海上保安庁もYS-11を調達した。
だが、YS-11は売れば売るほど赤字の出る飛行機だった。製造母体の日本航空機製造は航空機メーカー6社が構成する半官半民の特殊法人であり、コスト意識が欠落していた。YS-11を巡る経営は悪化する一方で、やがて赤字は360億円に達し、遂に、1971年、量産開始から7年で製造打ち切りとなったのだ。
それでもYS-11は多くの人に愛された。それはYS-11が、いかにも日本の飛行機だったからだ、と私は思う。『YS-11物語』には、同機に、当初、数多くの欠陥があったことが記されている。そして一つひとつの問題をめぐって、テストパイロットも、設計者も、魂を傾注し、渾身の力を振りしぼって解決に当たっている。それは紛れもなく、戦後、日本人が再び自分たちの力で立ち上がろうとした姿である。
にもかかわらず、YS-11は7年、182機で生産が打ち切られた。2~3年で変わっていく通産省の担当者や短期的視点に陥りがちな政治家の判断ゆえだ。航空機の開発や事業展開は少なくとも20年単位で展望すべきものだ。欧米諸国の現状は、国家の強力な支援なしには航空機産業は成り立たないことを示している。人の命を運ぶ航空機であればこそ安全を担保し、かつ時代の需要を満たすには、絶えず最先端技術を磨く研究開発も不可欠だ。国防政策、政治的要素も加味した総合的判断の下で、航空機産業を育てていかなければならない(『日本はなぜ旅客機をつくれないのか』前間孝則、草思社)。
このように指摘すべき問題点は多い。だが、何よりも私は、国産機の翼が美しく輝きながら、力強く飛び立つ日を心待ちにするものである。