「 誰が日本国の名誉を守るのか 」
週刊『週刊新潮』 2007年5月17日号
日本ルネッサンス 第263回
4月11日、名越二荒之助氏が84年の生涯を閉じたことを、私は小さな記事で知った。言論人としての氏の存在が大きかっただけに、お会いしたこともない氏の逝去を心から悼むものだ。
氏は大正12年岡山県生まれ、敗戦でソ連に抑留され、復員後、教員となり、後に高千穂商科大学教授に就任、1997年に退任後は執筆、言論活動に専念。68年には、家永教科書裁判で国側証人として法廷に立った。
氏をよく知る国際政治の専門家、田久保忠衛氏が振りかえる。
「名越さんが家永批判を展開された60年代から70年代は、現在では想像出来ないほどの左翼全盛時代です。その時代に、進んで左翼思想批判を展開した実に勇気ある人でした。韓国や中国に対しても、当時からズバズバと日本の主張を展開された。厳しく批判しながらも、彼らの長所を認め、日本はもとより、韓国・北朝鮮、中国も、恩讐を越えて相互の立場を深く理解し、合掌の心で接すべしという姿勢でした。その気持の一端は『日韓2000年の真実』という名著にまとめられています。中国にも韓国にも、氏との親交を持つ人々は多く、徳を備えた人でした」
氏の影響で、大東亜戦争観を一変させた人に稲田朋美氏がいる。郵政解散選挙で政界入りした氏は、弁護士として「百人斬り報道名誉毀損訴訟」の原告側代理人を務めた。
同訴訟は、昨年12月、最高裁で、原告の向井千惠子さんや野田マサさんらの敗訴が確定した。この訴訟を「弁護士生活20年の総決算」と位置づける稲田氏は敗訴を新たな闘いの出発点と受けとめ、この4月、『百人斬り裁判から南京へ』(文春新書)を世に問うた。
同書は烈しい動悸なしには読み得ない。中国で「南京大虐殺」、或いは日本の軍人たちの残虐さの象徴として喧伝されてきた「百人斬り」が、如何にして捏造されたか。稲田氏は訴訟の粗筋を辿ることで、「百人斬り」捏造プロセスでの日本人記者、中国政府、日本政府、日本の司法の関わりを浮き彫りにした。
唖然とする毎日新聞の回答
向井敏明、野田毅両少尉による「百人斬り競争」の記事は、昭和12(1937)年11月30日から12月13日まで、日本軍の南京攻略過程の武勇伝として『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)に4回にわたって報じられた。最終回の記事は12月13日付で「百人斬り゛超記録〟向井一〇六―一〇五野田」の見出し、写真入りの報道だ。写真は向井、野田両少尉が地面に立てた軍刀に両手を重ねたもので、南京をはじめとする中国の「歴史記念館」で、゛30万人虐殺〟の象徴として使用されている一葉である。
日本人には、一振りの日本刀で100人以上を斬り殺すことの不可能性は認識出来る。同書にも日本刀の専門家、大村紀征氏の「戦闘で100人を斬る等と云う『空想・戯言』は全くの論外」「荒唐無稽」「『劇画』も色褪せる話」などの証言が紹介されている。
『毎日新聞』は、1989年3月5日に出版した『昭和史全記録』の「百人斬り゛超記録〟」の項で、かつての自社の記事について、こう書いている。
「この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」
『毎日』が「百人斬り」は事実無根だったと断じているのだ。だが、法廷で『毎日』は、それは「執筆者の勝手な見解」「毎日新聞の正式な決裁を得た公式な見解ではない」と答えたそうだ。
稲田氏は『毎日』との応答のうちで極めつきは、『毎日』が「新聞に真実を報道する法的な義務はない」と開き直ったことだと書いている。
薬害エイズ事件で良質な報道を展開し続けた『毎日』が、真実報道の法的義務は新聞にはないと開き直ったという。伝統ある『毎日』は、一体どこでジャーナリズムの掟を捨て去ってしまったのか。
「百人斬り」に関しては、日本のジャーナリストたちの質が根本から問われている。その筆頭は『朝日新聞』の本多勝一氏であろう。本多氏は1971年に『朝日』に「中国の旅」を連載し、「競う二人の少尉」のタイトルで「百人斬り」を「上官命令による殺人ゲーム」として蘇らせた。
一方、日本刀で戦闘行為中に100人を斬り殺すことはあり得ないと認めざるを得なくなった本多氏は、「昭和五一(1976)年ころから『実はあの百人斬りは捕虜を並べて据えもの斬りにする虐殺競争だった』と言い出した」という。
死刑台への悲痛な叫び
本多氏の報道で、向井少尉らの実名が報じられ、向井千惠子さんは夫に「人殺しの娘」とののしられるようになり、子どもを連れて家を出た。だが、向井少尉は百人斬りや南京で30万人の虐殺が行われていたとされる当時、手足に重傷を負っていた。前線で中国兵を殺す、或いは捕虜を並べて斬り殺すことなど出来ようはずもなかった。向井少尉は戦後、中国に連行され、たった一日の南京での審理で死刑を宣告された。その場で彼は言った。
「記事は創作なり。南京に来た事なし。日本人は嘘を言わない。日本の戦闘は神聖なり。我等は清く戦えり。日華平和の為には一命笑って捧ぐるものなり」と。
さらに氏は書き残した。「自分は一体何の為に殺されるのか解らなくなってきた。生来誰一人手をかけたる事は無いにもかかわらず殺人罪とは。自分を殺す奴は殺人罪で無いのか」と。
向井少尉らを、「殺人ゲーム」の主役として歪曲した本多記者の連載は、北京駐在の日本の特派員が文革報道で次々と国外退去を命じられ、『朝日』の特派員だけが北京駐在を許されていた時期と重なると、稲田氏は指摘する。
当時の『朝日』の中国報道が、中国政府の意向を伝えるだけのものだったことは周知であり、本多氏も「中国の旅」については「中国側のいうのをそのまま代弁しただけ」、したがって「抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」と述べている。
こうして捏造され、歪曲された「百人斬り」について、日本の司法は、向井、野田両少尉の遺族による無実の訴えを退けた。日本の司法は、そして最高裁は、一体どうしたのだ。日本の裁判官は、それでも社会正義を実現する法の番人たり得るのか。
司法が正せなかった過ちを、政治家として正していきたいと、稲田氏は述べる。国民の生命、財産、領土を守ると同時に、国家の名誉を守ることを政治家の本分ととらえ、氏は「闘いは今、始まった」と結論する。名越氏は逝ったが、同じ想いで日本のために闘う覚悟の女性がいることを、私は心から嬉しく思う。