「 かつての“接待汚職事件”で引責辞任した屈辱をお忘れか 福井氏に求めたい真のけじめ 」
『週刊ダイヤモンド』 2006年7月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 647
国家の衰退は、その国のエリート集団の行ないに顕著に表れる。その意味で、福井俊彦・日本銀行総裁が村上ファンドへの投資を総裁就任以降も継続していたことを深刻に考えざるをえない。
日本の株価は外国資本の流れ方によって大きく左右される。加えて、個人投資家の資金も重要な要素の一つだ。それだけ多くの人びとが株式市場に資金を投入し、ファンドを活用して自己資産を管理する時代に入ってきた。そうしたなかで、株やファンドに資金を投入することが批判の対象となるわけではない。
だが、日本国の金利、金融政策を統括し、日本経済の行方に責務を負う日銀総裁となれば、事情はまったく異なってくる。どの国でも中央銀行総裁には、聖職者にも似た信頼が寄せられる。というより、その種の信頼なしには金融政策を統括することは難しいのだ。
米国の前FRB議長、グリーンスパン氏の言動がどれほどの重みを持ち、どれほどの効果を発揮したか。それらすべて、グリーンスパン氏への全幅の信頼が基(もと)になっていた。そうした信頼は、氏の決断と政策は公正無私の心から生まれていること、違法行為に走るような特定ファンドで自己資金を運用することなどあり得ない、ということを前提にしていたはずだ。
福井氏と村上ファンドとの関係を見ると、いくつか同情すべき点もある。第一に、福井氏が“若い世代への応援歌”というつもりで投資に応じたというのは、おそらくそのとおりだろう。氏が村上ファンドと結んだ契約書に「キャピタルゲインを得ること」がファンド設立目的の一つになっていると、批判的に報じた新聞もあるが、本来、ファンドとはそういうものだ。ファンドは投資家のために利益を上げ、還元していくからこそ、より多くの投資家からより多くの資金が集まり、より有利な運用が可能になっていく。同時に、ファンドへの投資にはリスクもある。元本割れも含めてのリスクを自己責任で引き受けたうえでの投資なのだ。
第二に、日銀総裁としての振る舞いを規定するルールが存在しないことだ。ルールがない限り、福井氏に責任を取らせるのは不合理だという見方もある。それも一つの意見である。
こうしたことを踏まえて、福井氏は氏なりの信頼回復の手を打とうとしているのであろう。総裁報酬の三割を半年間返上することや、村上ファンドで得た運用益のみならず、1,000万円の元本をも寄付する、などとの発言がそれである。
そのような氏の姿は、いやおうなくかつての事情を連想させる。氏は1994年、日銀のナンバーツーである副総裁に就任、次期総裁候補と見なされていた矢先の98年、日銀幹部職員による接待汚職事件が発生した。営業局証券課長が逮捕され、日銀の歴史始まって以来初めて、東京地検の家宅捜査を受ける不名誉と屈辱を体験した。当時の松下康雄総裁は引責辞任、結局福井氏も辞任に追い込まれた。その後、民間で「充電」し、総裁として蘇ったのは2003年だ。氏の胸中には、自分の責任ではないにもかかわらず引責辞任に追い込まれた無念の思いもあったことだろう。中央銀行の重鎮に求められる倫理の厳しさも実感したことだろう。
この苦い体験を忘れずに生かしていれば、今回のような脇の甘さゆえの問題は起こりえなかったはずだ。だが、氏がある種の甘さを持つことが明らかになった今、中央銀行総裁としての資質に疑問符が付いたのは事実だ。そのような総裁に、人心は集まらない。進退はあくまでも福井氏自身の問題だが、信頼なくして総裁職は務まらない。となれば、真のエリートのけじめのつけ方としての結論は明らかだろう。
道路族議員が胡散臭すぎる連中ばかりな件
7月16日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』にて、水谷建設に関わりのある政治家の話が為された。
トラックバック by 徒然なるままに@甲斐田新町 — 2006年07月20日 00:21
谷垣禎一財務相の総裁選出馬に関し、
共同通信社の記事には、下記の記述があった。そこで、一言申し上げたい。
自民党総裁選に出馬の意向を表明している谷垣禎一財務相は22日午前、靖国神社参拝…
トラックバック by よろずBLOG — 2006年07月22日 17:12
谷垣財務相の意見発表について
読売報道によると、こんな記事があった。それで、その発言内容に疑問を呈して見た。
谷崎氏発言:
自民党総裁選に関連し、「『増税せよ』と言いたいのでは…
トラックバック by よろずBLOG — 2006年07月24日 16:09