「 テロでも不動の英国に学べ 」
『週刊新潮』 '05年7月21日号
日本ルネッサンス 第174回
7月7日にロンドンを襲ったテロ攻撃で、地下鉄3ヵ所での爆発はほぼ同時の、午前8時50分頃に、50秒以内に続いて起きていた。周到に準備されたテロ攻撃であり、7月11日現在、まだ約20人が地下鉄内に取り残されているとみられる。
主要先進8ヵ国によるサミット開催に合わせたテロについて、欧米のメディアが大きく報じたことのひとつは、テロに対する英国民の反応である。
テロの翌日の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』(IHT)紙はテロ攻撃による惨状を詳報しつつ、ロンドン市民が如何に素早く、“平常”に戻ったかを報じた。「英国人の記憶、IRAが生み出した奇妙な安らぎ、チャールズ皇太子のお茶の振舞い」と題をつけられた記事には、英国人の冷静さに対する驚きがにじみ出ている。
同記事は「英国人は現実的で鈍重で、世界大戦や(カトリック系過激派の)アイルランド共和国軍(IRA)のテロ攻撃に慣れていると一般的に見られている」と書いたうえで、テロ攻撃にもかかわらず動じなかった実例を幾例も紹介した。
たとえばタビストック・スクエアにあるロンドンカレッジ大学で歴史の授業を受けていたミシガン出身の米国人留学生の次の証言だ。
「教授は、轟音と共に建物が揺れたのを気にもせずに授業を続けました。サイレンとヘリコプターの騒音で中断を迫られるまで、教授の授業は平常通りでした」
最も悲惨な現場となったキングスクロス駅前のパブは、折りからの激しい雨をよける場所を提供するために予定より早く開店したとか、テレビでニュースを見ようと大勢の客が立ち止まった別の店も急遽開店、事件を知った店主は「それでも人生は続く」との思いでいつもどおりのサービスを開始したなどのエピソードが紹介されている。
英国の冷静なる対処
サミットを主催していたブレア首相も急遽ロンドンに戻り、平常心を失わない国民の冷静沈着な態度と、日常生活への早い立ち戻りに賛辞を贈った。王室のメンバーも見事な連係プレーを展開、エリザベス女王は、事件後直ちに、「英国民はテロによって威嚇されることはないという決意を持とう」と「抑制のきいた表現でメッセージを投げかけた」と報じられた(『産経』7月10日)。
チャールズ皇太子は、テロ攻撃当日の午前中に爆発現場近くで予定されていた青少年訓練センターへの訪問こそ取りやめたものの、同日午後には、退役軍人を招いての茶話会は予定通り行った。事件で欠席者が出ると見た王室側は、なんとタクシーを手配して退役軍人ら一人一人を迎えに行ったのだ。無論、自ら宮殿にやってきた軍人もいたが、王室による咄嗟の判断で茶話会は予定通り行われた。何があっても揺るがないという姿勢を、王室が率先して示すことにより、国民は国家に対する安心感と信頼を再確認出来たはずだ。
2001年の9・11テロのときより、確かに犠牲者の数は桁違いに少ない。といっても、今も救出されていない人々を入れれば犠牲者は少なくとも70名を超すと見られる。この大きな犠牲を、9・11で米国民が見せた燃えるような祖国愛と団結とは一味も二味も異なる沈着さで乗り切ろうとしているのが英国である。
成熟した政治文化と言えばよいだろうか。その中で下される結論は、エリザベス女王の言葉が示したように、テロには屈しないということである。英国の反応は、同じように鉄道を爆破され多くの犠牲者を出したスペインとは異なる。
スペインは2004年3月11日にマドリードで鉄道がテロで攻撃され192名の犠牲者が出た。事件処理のまずさもあって、その後の総選挙で、米国のイラク戦争を支持していたアスナール政権与党が敗北し、社会主義政権がとって代わった。新政権はイラクからの撤退を約束したが、同年4月2日にはマドリード─セビリャ間に新たな爆弾が仕掛けられていたのが発見された。事前に発見されたため、さらなる惨事は回避出来たが、事件はテロに屈することの無意味さを伝えていた。歴史家で「ヒトラーとチャーチル」を著したA・ロバーツ氏がIHTにこう書いた。
「いかなる形でも、虐殺者に譲歩することは決して英国人の望まないことである。我々はテロ攻撃の後、当局が大袈裟に反応し、全ての交通機関を止めたことに違和感を抱くものだ。ロンドン警察署長が外出は“絶対不可欠な場合にのみ”に限って自粛せよと命じたことを厳しく批判したい」。
挫折が育んだ国力
絶対にテロにはひるまないと言っているのだ。英国人の面目躍如というところか。この冷静さは、前述のように、IRAによるテロや第二次世界大戦でドイツ軍の空襲に耐えたことで培われたとの解説が一般になされている。だが歴史を眺めると、彼らはIRAやドイツとの戦いよりもはるかに多くの大規模な苦戦と敗北を体験し、それらの経験が英国を鍛え上げたことが見えてくる。たとえば、現在の盟友、米国の独立である。米国の独立の約20年前に、英国は7年戦争(1756~63年)を戦い、完璧な一人勝ちをした。インドからフランスをはじめとする列強全てを排除し、完全掌握した。北米大陸ではカナダとアメリカの植民地の全てをおさえた。フィリピンにもジャワにも、中南米にも進出した。周知のように、米国の独立は、この7年戦争で英国が北米大陸に獲得した植民地の管理費に充てるために北米13の植民地に課税したことに端を発する。
一人勝ちした英国に対して、フランスなど国際社会の反発と嫉妬は強く、それが反英国の同盟結成を目指して欧州諸国に外交攻勢をかけるアメリカのリーダー達の背中を押してくれた。英国包囲網の根強さに気づかず英国は対米強硬策を強行、ついに敗れ去ったのだ。
ボーア戦争も英国の苦い敗北だ。アフリカ南部の金鉱をめぐってボーア人と戦ったのだが、ゲリラとなった3万5,000余のボーア兵に50万の英国兵がタジタジとなった(『国まさに滅びんとす 英国史にみる日本の未来』中西輝政著、集英社)。
兵力をボーア戦争にとられた英国が、ロシアの脅威に対処するために結んだのが、台頭しつつあったとはいえ、まだ東洋の小国でしかなかった日本との同盟、日英同盟だ。
多くの栄光と共に、敗北と挫折も繰り返した結果としての政治的熟成が、現在の英国の国際社会での発言力の基盤となっている。英国は過去の失敗に学び、弱点を克服したからこそ、国力を回復し、発言力を強めることが出来ている。翻って日本はどうか。歴史への無関心が物事への感情的対処と卑屈さを生んでいないか。英国民の冷静な反応を見ながら、彼我の相違について考えるのだ。