「 エイズ裁判に患者の声、響く 」
『週刊新潮』 2004年10月21日号
日本ルネッサンス 第137回
去る10月5日、薬害エイズ厚生省ルートの控訴審が東京高裁で開かれ、最終弁論が行われた。
この裁判で元厚生省生物製剤課長の松村明仁氏は2人の患者の死について刑事責任を問われている。地裁では、氏は第一の被害患者については無罪、第二の患者については有罪とされた。第一の患者はその死を巡って安部英元帝京大学副学長が刑事責任を追及された患者でもある。
裁判を振り返ると高裁と地裁とでは明らかに大きな変化が生じている。一言でいえば検察官が被害患者の訴えにまともに耳を傾け、裁判所もまた被害患者の想いに正面から対座しようとした点だ。
検察官は最終弁論でこう述べた。
「A証人は『発症率という数字的なことではなく、(患者には)感染すれば発症して亡くなっていくという思いがあり、(当時は)感染イコール死みたいな認識でした』(中略)『エイズのような大変な感染症が出たときに、科学的な知見が確立するまで対策ができないのはやむを得ないというような判断が(第一審の東京地裁の)判決の中にあったように思うが、危険があったら早くに対策を立てて、一人でも多くの患者を救うことが患者を守る一番の大きな役割ではないかと思う』旨述べました。このことは、決して素人の非科学的な感情論などではなく、薬務行政の究極の目的が国民の生命・健康を守ることであるのを忘れ、科学論争に走ることによって行政担当者を擁護するとも評し得るような偏った判断に及んだ原判決の基本的な誤りを、素直な言葉で言い当てている」
A証人とは被害患者の大平勝美氏のことだ。地裁の永井敏雄裁判長は患者を証人として採用することを拒否した。これまでに560人以上もの犠牲者を出した薬害エイズ事件の裁判でありながら、一人の患者も法廷に呼ばなかった永井裁判長の手法は疑問を抱かせるものだった。被害の実態を被害者の証言も聞かないで、どうして事の真実に迫ることができるのか。こうして地裁で安部氏が無罪となり、松村氏も第一の患者に関して無罪となったのは周知のとおりだ。
論点は数字ではない
検察官は、地裁では採用されなかった患者の証人申請を、高裁で再び、行った。高裁の河邉義正裁判長はそれに応え、大平氏の証人尋問が実現したのだ。大平氏が淡々と、しかし、しっかりと訴えたことは、松村公判でも安部公判でも、非加熱濃縮製剤の感染率はどうだったか、感染者の発症率は、死亡率は、などという“科学論争”が目立ったが、そんな数字の論争は患者にとって無意味だったということだ。感染即死亡という一般認識があった当時、発症率が何パーセントだから血液製剤を切り替える、或いは切り替えずに非加熱製剤を続けるなどという議論では患者は救われないということだ。
検察官は大平氏の証言を重視し、氏の言葉を最終弁論で引用した。
「万一そういう科学的な知見が確立するまで何も対策ができないという話だったら、今後も大変な病気がはやったときに対策が手遅れになって、私たちのような多くの被害者が出るという二の舞が起きてしまうと思う。是非そういった判断を見直していただきたいと思います」
原因が明確にわかるまで対策をとらないのであれば厚生行政は必要ない。また当時、非加熱製剤とエイズの因果関係に気づき、患者に非加熱製剤を使わせなかった医師たちは、少数ながら複数存在した。彼らは安部氏のような血友病の専門医でもなく、エイズ関連の情報を一般医に先がけて入手できるエイズ研究班の班長でもない。一般医が患者を守るために取った非加熱製剤を使わせない措置が、なぜ、専門医には取れなかったのか。そのような過ちを犯した専門医や行政官の責任を明らかにしてほしいと、大平氏は訴えたのだ。
一審で無視された患者の声は、高裁でようやく耳を傾けてもらえた。裁判長が患者の訴えを正面から受けとめる姿勢もみられた。裁判の重要点が大きく移った中で、松村氏側の主張は一審と殆ど変わらなかった。弁護人が最終弁論で強調したのは松村氏は担当課長として法令違反を犯したわけではないという点だ。
事実とかけ離れた“反論”
85年7月1日に加熱血液製剤が承認されたあとも、86年、87年頃まで非加熱製剤は使われ続け、多くの感染者が出た。そのような結果を避けるために、松村氏は担当課長として非加熱製剤の回収命令を出すべきだったと、検察側から責任を追及され、一審判決ではそのようにする“作為義務”があったとされた。回収命令を出さずに非加熱製剤を放置した“不作為の罪”を問われたのに対して松村氏側は反論した。
「被告人自身、加熱製剤が供給できる場合にも、敢えて非加熱製剤を積極的に市場に売り出していくということについては、想定していなかった」「(ミドリ十字が米国由来の血液製剤を日本人の血液による安全な血液製剤だと偽って売り尽くしたような)不正な方法で非加熱製剤の販売を敢えて継続するという事態については、予見していなかった」
「(ミドリ十字の行為は)組織ぐるみの悪質で特異な違法行為である。このような違法行為をしてまで非加熱製剤が販売されることを予見するのは不可能である」
結果を予見できなかったのだから、手を打たなくとも有罪にされる理由はないとの論法だ。
検察官は厳しく指摘した。
「『昭和62年(87年)に入るまで日本社会に本当の意味でのエイズ対策はなかった』とか『昭和61年(86年)1月末までで我が国の血友病患者7名がエイズと認定されていた事実からは、(中略)非加熱製剤の使用をやめさせるというふうには思わなかった』などという供述に終わっている」「昭和62年2月までエイズ問題に真剣に取り組むことはなかったなどというのは耳を疑う供述であり、むしろ、自らの無為無策・怠慢振りを図らずも自認したものというべきです」
松村氏が生物製剤課長を務めたのは84年7月から86年6月末までの2年間だ。氏の法廷証言によれば、氏が生物製剤課長だった86年1月末には、まだ、非加熱製剤の使用をやめさせる必要があるとは考えず、日本政府がエイズ対策を取り始めたという87年には、氏はすでに生物製剤課には在籍しておらず、無関係ということになる。責任逃れの論にしても、余りにも事実とかけ離れている。
83年6月のエイズ研究班の設置は、そのときまでに日本政府がエイズの危機感を抱いていたことを示し、その直後には非加熱製剤の危険を示すギャロ検査や栗村検査があった。帝京大安部教授の患者2名は83年と84年にエイズで亡くなっているのである。白々しい主張を展開する松村氏への判決は来年3月25日である。