「 『尖閣諸島』が危ない!〈後編〉 」
『週刊新潮』 2004年8月26日号
[特集] 日本ルネッサンス 拡大版 第129回
8月、サッカーのアジア杯では、優勝した日本チームに、決勝戦の後、中国の群衆が怒りを噴出させた。日本公使の公用車の後部ガラスが割られ、日の丸が焼かれ、日本人サポーターらが中国人に取り囲まれた。「釣魚島(尖閣諸島)は中国領だ」と書かれた横断幕は当局が没収するまで会場に高々と掲げられていた。
現地に行った日本人サポーターらが“怖ろしかった”と語った烈しい反日感情は、90年代以降顕著な反日教育の結果である。だが、日本政府はこれを極力、過小評価し、中国政府はスポーツ観戦のマナーの欠落を認めながらも、騒動が政治問題化した責任は日本側にあると開き直った。
中国側が自己主張し、日本側が耐えて従う構図は、東シナ海で現在進行中の中国による不当な海洋資源の採掘とその先の吸い取りに関しても同様である。
問題を直視することが出来ない日本政府はいつまでたっても有効な対策を打ち出せない。問題解決の経過として、摩擦も覚悟しなければならないが、摩擦に耐えて、21世紀の日本の国益を守るための政治決断が小泉純一郎首相にも川口順子外相にも出来ないのだ。
だれも決断出来ない、或いはしない状況で、8月5日、細田博之官房長官が「大陸棚調査・海洋資源等に関する関係省庁連絡会議」設置を発表した。同連絡会議は二橋正弘内閣官房副長官を議長とし、8省庁の局長クラスで構成する。
細田長官は記者会見で「海洋をめぐるさまざまな問題はわが国の国益に直結する課題。問題を特定せず協議する」と述べ、連絡会議が中国の動きに必ずしも対応したものではないと強調した(8月6日『毎日』)。
この期に及んでこの発言である。国民の共有財産である海洋資源が隠しようもなく、中国側に理不尽に吸い取られようとしているいま、国民の利益を守る気概よりも、中国を刺激しないことを前面に出すのは長い目でみて、誤った結論に両国を導くのではないか。今はむしろ、厳しく問題を指摘し、中国に警告すべき時である。国民にも広く問題を知らせ、国民の支持で政府の足場を固めて中国に物を言う時である。にもかかわらず、翌日の首相官邸での連絡会議初会合の議論も、中国への“配慮”で満ちあふれていた。
中国側が今年5月から東シナ海の日中の中間線からわずか5キロ中国側に入った春暁石油・天然ガス田で井戸の掘削を開始したことは前号でも報じたが、日本政府は井戸が海上に姿を現して、はじめて慌てて海底の資源調査に乗り出した。連絡会議では、7月7日に始まったこの資源調査を10月まで続けることを確認した。日本周辺海域の大陸棚が日本の領土と地続きであることを証明するデータを2009年1月を目処にまとめ、国連に提出することも申し合わせた。これから足かけ5年を費やして調査する予定なのだ。余りにひどい出遅れではある。しかも、そうした調査や中国との折衝の基本戦略は、連絡会議の構成を見る限り、官僚が主軸となって練り上げるのだ。どれ程優秀だと仮定しても、この種の問題は官僚には荷が重すぎる。後述するが、中国の海洋政策は中国の国運を賭した固い国家意思から生まれたものだ。日本も国家の威信をかけて、政府全体の力と叡知を集結して当たらなければ、到底、太刀打ち出来ないだろう。
だからこそ参院議員の武見敬三氏を座長とする自民党政務調査会の「海洋権益に関するワーキングチーム」(WT)は、去る6月15日に「海洋権益を守るための9つの提言」を行った。提言は自衛隊の能力強化、日米安保の活用、日本側海域での試掘の実施など、極めてスジの通ったものだ。その筆頭が「海洋権益関係閣僚会議」の設置である。なぜ閣僚会議が必要なのか。武見氏が語った。
「海洋権益は領土及び安全保障問題と密接に結びついた複雑な問題です。しかし日本には海洋戦略の基本方針も枠組みもない。内閣には大陸棚に関する連絡会議があり、事務次官クラスが担当して各省庁の局長クラスで調整機能を確保する仕組みです。しかし、ここには最も重要な外交と安全保障が入っていない。加えて局長レベルでは省庁間の調整しか期待出来ません。だからこそ、官房長官を頂点にして、閣僚を中心に据えて、政治の責任と力で、正面突破していくような強力な体制が必要なのです」
関係閣僚会議の設置は即、日本の海洋資源を守り抜くという日本国政府の決意表明になる。中国に侮られないだけの“決意表明”こそが、いま、緊急に、必要なのだ。だが、小泉首相は武見氏らの提言に耳を傾けなかった。首相には、日本の官僚を中心とする組織などでは歯が立たない中国の戦略や意図が理解出来ないのであろう。その中国の海洋進出の国家意思の形成は60年代に遡る。
屈辱の賠償外交
現代史を遡れば、日中両国は、国柄、国家目標を含め、およそ全てにおいて正反対なのが見えてくる。敗戦後、日本が憲法9条をいとも容易に受け容れ武力を放棄したのに対し、中国は1949年の建国時に毛沢東国家主席が核大国になることを国家戦略の基礎とした。50年には100万人の兵士を朝鮮戦争に投入。54年から55年まで、さらには58年に台湾海峡で国民党軍と戦った。59年にはチベット動乱、62年にはインドと国境で戦った。
その間、日本は経済成長を目指し、64年にはアジア初のオリンピック開催に湧いた。その年、中国は核実験に成功した。69年には旧ソ連と国境で戦った。70年に日本は万博のお祭り騒ぎのなかにあったが、中国はミサイルの発射実験に成功、米軍基地も含めて日本全土を射程内におさめた。72年日中は国交を樹立し、日本の実質的な賠償外交が始まった。中国は74年に南シナ海でベトナムと戦い西沙諸島を手に入れた。78年、鄧小平が来日、日本の領土の尖閣諸島の帰属はいま決着出来なければ子々孫々の時代に解決すればよいと発言。
この間中国は66年から76年までの10年を文化大革命という権力闘争に費やし、3,000万人を死に至らしめた。そして88年、中国は南沙諸島をめぐって再びベトナムと戦った。
振りかえれば、第二次大戦後、中国はほぼ一貫して武力を国家の軸とし、かつ、領土領海拡張のための戦いを持続してきたことが明らかだ。対照的に日本は北方領土も竹島も、そして尖閣諸島も、すでに失ったか、失いつつある。排他的経済水域を200カイリと定める国際海洋法に基づけば、日本の海域は世界6位の広さである。この広大な海こそは資源の宝庫であり、21世紀の日本を支える原動力となる。にもかかわらず、日本政府にも国民にも、海洋権益への関心も執着も極めて希薄である。
一方の中国が明確に海に目を転じ、そこに戦略的生き残りの可能性を探り始めたのは対立と訣別を機にソ連による経済・技術援助が打ち切られた60年以降のことだ。杏林大学教授の平松茂雄氏は指摘する。
「61年に遠洋運輸公司を、64年には国務院に国家海洋局をつくりました。68年には東シナ海の中国の主権を主張しました。その主張を実現するために、70年代以降、次々と新しい海洋調査船を建造し始めたのです」
海洋資源を自国のものとするには、まず広大で深い海の資源分布を知らなければならない。中国は国務院も海軍も一体化する形で猛烈に調査船建造にのりだし、84年までに165隻、15万トン分を作った。調査船では世界第4位のスケールだ。86年から87年にかけて鄧小平の軍事改革の一環として「三次元の戦略的国境」政策を打ち出した。領土、領海、領空という地理的国境に加えて、その国家の「生存空間」としての戦略的国境を確保する考え方だ。戦略的国境は「領土、領海、領空に制約されず、総合的国力に伴って変化する」のだ。平松教授が強調した。
「地理的境界から外に出て戦略的国境を長期間にわたって有効支配すれば、地理的国境を拡大することが出来る。反対に、戦略的国境が長期間にわたって地理的国境よりも小さく、この2つを一致させる力がなければ、その国は領土の一部を失うということです」
中国を過小評価した日本
中国は戦略的国境の考えと共に宇宙空間での“高度境界”の確立をも、国家目標と定めた。「宇宙と深海底を征服する能力が国際社会での国家の地位を決定する。未来の世界大国は高度に発展した宇宙・海洋技術を有する国」を目標に、中国は突き進んできた。この決意の背景には強烈な歴史意識があると、平松教授は解説するのだ。
「煮つめれば中華思想ではないでしょうか。黄海、東シナ海、南シナ海はもともと中国の海だった、しかし清朝中国が海軍力を重視しなかったため、阿片戦争を機に西欧列強や日本に奪われたという考えです。海軍力によってこの海を奪還することが中国海軍の歴史的任務だという理屈です」
彼らは本気なのだ。日本人が江戸時代の昔から使っており、最盛期には200名を越える定住者がいたという尖閣諸島を92年に国内法(領海法)を定めて勝手に中国領だと主張し始めた国である。その年、中国は日本の国会にあたる全人代で海洋権益の防衛を海軍の重要な任務として明記した。日本の海上自衛隊が日本の海洋権益の守りよりも米海軍の補完勢力として位置づけられがちなのに較べれば、彼我の違いは余りにも大きい。海洋と宇宙への中華的構想が、日本の足下の春暁ガス田の開発の背後にある。
経済成長と増大するエネルギー事情以前のこの中国のメンタリティを過小評価してはならないだろう。
中国とは反対に、日本はずっと事なかれ主義と怯懦(きょうだ)の海に沈んできた。今年3月24日の中国人7名の尖閣への上陸を見よ。尖閣への関心が深い地元紙の記者、滝本匠氏が語った。
「尖閣諸島は5つの島と3つの岩礁で出来ています。一番大きいのが魚釣島。沖縄の竹富島をひとまわり小さくした感じです。その小振りの島に最も高いもので362メートルの山々がそびえていますから、非常に険しく見えます。上陸した中国人らは、峯というよりその崖を登ったのです。片側20メートルほどの断崖絶壁、背後は険しい岩場をよじ登り、畳半分ほどの平らな部分に中国の旗を置いたのです。沖縄県警の選りすぐりのレンジャー3名が、中国旗の回収任務にあたりましたが、彼らはこれまでの任務で最も危険な任務だった、生命の危機を感じたと語ったそうです。7人は明らかに軍人または特殊な訓練を受けた男たちだと思われます」
彼らと中国軍、中国政府のつながりも疑ってみなければならないわけだ。
だが、こうした情報は、沖縄県警からも外務省からも容易に出てこない。外務省はむしろ、隠す側に立ってきた。その姿勢はさらに中国への媚びとなり、明らかに国益を深く損なわしめる外交につながってきた。具体的には92年を考えてみるとよい。すでに触れたように中国は92年に領海法を採択、尖閣諸島も台湾も澎湖諸島も南沙諸島も中国領としたが、同法第14条は「中国の領海及び接続水域」に許可なく入ってくる外国の軍艦を排除し追跡する権限を中国軍の艦艇及び航空機に付与すると明記した。つまり、日本の船が突然、尖閣周辺という明確な日本の領海で、中国艦船に排除追跡される本末転倒の事態もあり得るということだ。
沈黙は許されない
戦略的国境の国、中国は軍事力を背景に、ベトナムの抗議を物ともせず、領海法制定から2カ月後、南沙諸島での石油探査権を米国企業に開放すると公表した。
当時中国は89年6月の天安門事件の後遺症に苦しんでいた。国際社会は経済制裁を科すなかで、中国は強気の海洋戦略を実行、地下核実験まで再開したのだ。そんな中国に、宮澤喜一首相(当時)は天皇皇后両陛下の御訪問を実現させた。中国大使の橋本恕(ひろし)氏は天安門事件で日本が凍結した円借款を解除し、天皇訪中に反対の自民党議員らを説得して歩いた。この御訪中は2003年に出版された銭其逅寢O相の回顧録に天安門事件後の西側の制裁に穴を開ける戦略的な目的に見事に役立ったと書かれていた。
外務省の外交の“反日振り”は96年の国連海洋法条約に関連する日中両国の結んだガイドラインでも際立っていた。中国の軍艦や調査船はすでに許容し難い頻度で日中中間線の日本側海域で調査活動を実施していたが、このガイドラインはそうした問題を「平和的に解決する」ためのものだったのだ。日本側が忍従する以外にどのような“平和的解決”があるのかと問いたくなるが、問題は同ガイドラインの、調査海域が日米安保条約等に基づき、「米国に提供された施設、区域に該当する場合」、海域の変更に応じることを条件とするという項目である。
米軍の活動に支障があれば変更を求めるというのだが、日本の海上自衛隊の支障になる場合については全く言及がない。一体、この国は中国と米国のために存在するのだろうか。
事例を挙げ始めれば切りがない。中国が長期の国家戦略として着々と進める東シナ海、南シナ海の中国領海化を、日本は指をくわえて見ていてはならない。見下されることなく、対等で良好な関係を築くためにこそ、断固国家として決断し、広大な海洋権益の守りに乗り出すしかないのだ。
日本は米国を支持する立場から自衛隊をイラクに派遣中だ。国益を考えての戦略に反対するつもりはない。しかし、イラクよりもっと近くの、日本の領海とEEZがいま、中国に脅かされているのだ。自衛隊のイラク派遣に関して国民を説得しようと雄弁に語った小泉首相や石破茂防衛庁長官はなぜ、眼前の日本の海の国益について沈黙を守るのか。中国に何か言えば不都合な事情が生じるわけでもないだろう。武見氏らの提言した関係閣僚会議の設置を急ぎ、日本国政府の意思表示を声を大にして表明せよ。国家であることを忘れてはならないのだ。