「 誤報で躓いたBBC 」
『週刊新潮』 2004年2月12日号
日本ルネッサンス 第103回
1月28日に提出された700ページにのぼる英国独立司法調査委員会の最終報告書は、世界で2億人が視聴するという英国公共放送BBCの報道を完膚なきまでに否定した。
9・11、アフガニスタン攻撃、さらにはイラク戦争など、BBCの報道は英国の国益のみにとらわれることなく、報ずるべき情報を報じてきた点で、高く評価されてきた。国際メディア界で一目も二目も置かれている名門BBCの誤報問題に独立調査委員会はどう対処したか。
事のおこりはアンドリュー・ギリガン記者の2003年5月29日のBBCラジオの報道だった。同記者は、ブレア政権はいわゆる“45分情報”が間違いだと知りながら、それを2002年9月の政府報告書に盛り込んだと報じた。
“45分情報”とは「イラクは45分以内に大量破壊兵器を実戦配備出来る」という内容で、イラク参戦に反対の強かった英国議会と世論を参戦へと説得する情報ともなった。
ベテラン判事、ハットン卿を長とする通称ハットン委員会の調査は、昨年10月2日号の小欄でも伝えたように、実に詳細にわたる。調査内容は機密を除いてネット上に全公開されており、それを見ると、昨年9月17日のギリガン記者本人への尋問のなかで、同記者は驚くべきことを語っていた。45分情報を報じた部分は「舌が滑った( slip of tongue )のであり、生番組ではしばしば起きることです」と述べたのだ。
ちなみに同記者の取材ノートからも、「政府が誤りと事前に知りながら、45分情報を報告書に盛り込んだ」と、情報提供者の故ケリー博士が語ったとは確認出来ていない。
ギリガン記者は、また45分情報が政府報告書の最初の草案に盛り込まれておらず、最終版に挿入されたのは、同情報の情報源がたったひとつであり、国防省等情報分析担当官らは必ずしも真実だと信じていなかったからだと報じたが、この点も誤りだったことが示された。同情報はSIS(英国秘密情報部)の分析で信頼すべきものとして、英国情報分析の最高権威であるJIC(英国統合情報局)に上げられ、信頼性は高いと判断されて報告書に盛り込まれたというのだ。
ハットン委員会はギリガン報道の全否定にとどまらず、BBCの編集体制をも厳しく批判した。
「記者が報じる内容を編集長らがチェックすることもなく、報道の是非が考慮されることもなく、ギリガン報道が行われたのは、BBCの編集システムの欠陥である」と、ハットン報告は断じた。
なぜそんなことになったのかは、ギリガン報道を取りまく状況が説明してくれる。同記者が45分情報を報じたラジオ番組「トゥデー」は早朝の番組で、彼はスタジオからの質問に電話で、自宅から答えている。時間は午前6時7分からだ。
彼は、ハットン調査委員会で記事は「前もって原稿にしておくことが重要です」と述べているが、現実には前もって原稿を用意しなかったために「舌が滑り」、編集長もチェックが出来なかった状況が浮かんでくる。
BBCの責任の取り方
ハットン報告書はさらに、英国政府がギリガン報道は誤報として抗議したとき、BBC側はギリガン報道の正否を吟味もせずに反論したと次のように厳しく指摘した。
「BBC首脳部は、ニュースディレクターのサムブルック氏が政府広報担当官のキャンベル氏に2003年6月27日付の反論の手紙を書く前に、ギリガン記者の取材ノートを検証することを怠った。6月27日以降に、BBC首脳部は初めて同記者の取材ノートを検証し、その結果、同記者が報じた英国政府への最も深刻な疑惑は十分な裏づけを持つものではないことを認識した」
だがBBC内部にもギリガン報道への疑念はあった。「トゥデー」のマーシュ編集長がラジオ局長に、ギリガン記者の「言葉遣いのルーズさと文章表現の不適切さ」を指摘するメールを送っていたのだ。
ハットン報告は、BBC内にも問題意識があったにもかかわらず、現場ディレクターにもBBCの理事たちにも問題は伝わらず、共有されず、政府の抗議に適切な配慮を払うことが出来なかったとしている。
BBCへの厳しい断罪とは対照的に、ハットン委員会はブレア政権には非はなかったと結論した。情報源としてケリー博士を示唆したことは状況を考えれば、止むなしとせざるを得なかったとし、取材陣から同博士の名前の確認が求められれば確認せざるを得なかったというものだ。
ハットン報告発表の日、私は英国政府とBBCの烈しい戦いを報じるBBCの特別番組に釘づけになった。ハットン卿が報告書を読み上げ、当事者らの反応が報じられた。BBCのダイク会長は誤報を認めたうえで、「報道は国民の知る権利に応えたものだ」と声明を発表、ブレア政権は強く反発し、明確な謝罪を求めた。翌29日、ダイク会長とデービス社長が辞任、30日にはギリガン記者も辞職。BBCとの戦いに、ブレア首相は完勝したことになる。
日本のメディアはどうか
だが、英国民は3対1で首相よりもBBCを信じているようだ。背景には、今も見つからない大量破壊兵器の問題がある。首相が情報を曲げたわけではないにしても、首相に届けられた情報自体が誤っていたのであるから、誤りの原因は、英国政府の責任で調査しなければならない。
そんな状況で、英国議会が下した結論は、現実の政治とはなにかを突きつける。2月2日の英国議会は、イラク戦争に参戦したいま、英国へのテロ攻撃が強まることが予想されると判断し、危険を減ずるためにはイラクの安定が回復するまで、むしろ駐留期間をのばすべきだとの見解をまとめた。
もはや単純に兵を退くことは叶わない、国益はイラクに安全と安定を取り戻すことで守られると政府側は考える。大量破壊兵器問題と悪夢のフセイン政権の間で、メディアはどう報じていくのか。メディアは国益をどう位置づけるべきか。そもそもメディアは国益を考えながら報じるべきなのか。メディアが国益に貢献出来るとしたら、それは事実を報ずることによってなされるはずだ。事実の報道で実態が知らしめられ、長期的に考えればそのこと自体が正しい選択を可能にし、国益に貢献することになる。
ハットン委員会、英国政府、BBCの激しい論争を見ながら、厳しく論じ合えばこそ、少なくとも彼らは納得のいく答えを見いだすだろうと考える。そして日本のメディアについて自問する。問題に対して、形ばかりの調査で片づけてはいないか。責任を取るべき人が責任も取らずに幕引きしていないか。対症療法の誤魔化しでは、そのメディアの真の立ち直りはあり得ないのである。