「 えひめ丸事故を教訓に考える死生観の隔りと謝罪への対応 」
『週刊ダイヤモンド』 2002年12月28日・2003年1月4日新春合併号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 475回
2001年2月9日、ハワイ沖で愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」を沈没させた、米国原子力潜水艦「グリーンビル」のスコット・ワドル元艦長が来日した。2002年12月15日に宇和島市を訪れ、同校に建てられた慰霊碑に献花した。
同事件を軸に展開された日米の対応と反応に、多くを考えさせられた。
2月9日の事故発生の約2時間後、米政府高官が日本の駐米大使柳井俊二氏に、ブッシュ大統領は森喜朗首相(当時)に電話で謝罪するなど素早く対応した。フォーリー大使は森首相および被害者家族を訪ねて直接謝罪した。
その後、米海軍のウィリアム・ファロン作戦部長が特使として日本に派遣され、家族、学校、および日本政府関係者らに謝罪した。米国側に「日本人はどこまで謝罪を要求するのか」という論調がみられたのがこの頃だった。
船体の引揚げと不明者捜索についても、日米間に齟齬がみられた。米国では、海難事故に際して大規模捜索が3日以上続くことは稀だといわれる。他方、日本側は船体と遺体を確認するまで捜索し、犠牲者を引き揚げ、荼毘(だび)に付し霊を慰めるところまでするのが、生者の死者に対する務めだと考える。
米国の友人たちから問われたことの一つは、船体と遺体の引揚げである。
えひめ丸は、ホノルル沖620メートルの海底に沈んでいた。かつて、これほどの深さの海底から船を引き揚げた経験はどの国にもない。技術的には可能であっても、費用は70億円を下らないと推測された。ハワイの真珠湾には、日本軍が撃沈した戦艦アリゾナが、幾多の兵士の遺骨を抱いたまま、今も沈んでいる。ジョン・F・ケネディの長男、ジョンJr.は飛行機事故で海中に沈んだが、遺体の引揚げは行われていない。海は死者の墓所との考え方があるからだと、友人は語った。
日米双方の死生観の隔りは大きく、この隔りは、互いに受け入れるしかない。現地ハワイの新聞を読むと“日本人の心を尊重せよ”“犠牲者の想いに心せよ”などという表現にしばしば出会った。二つの異なる価値観のなかで、米国側は日本人の心に配慮しつつ、総じてよく努力したと私は思う。とりわけハワイの人びとは、現地を訪れた遺族への支援と配慮を忘れなかった。
米海軍は、延べ425回の潜水調査で、行方不明者9人のうち、水口峻志さんを除く8人の遺体を発見した。捜索終了は11月16日だった。その2ヵ月前の9月11日に、米国はテロ攻撃を受け、全土が厳戒態勢に入り、ハワイに駐留する軍もアフガニスタン攻撃の準備を進めていたが、えひめ丸捜索の手は抜かなかった。
たとえば、家族の方がたの希望で、故人の想い出につながる品物の回収にも心を砕いた。「夫とともに海に沈んだ結婚指輪を見つけて」との要望は、当初、不可能と思われたが、奇跡的に指輪は発見された。このニュースを、ホノルルの人びとが感動的に語っていたのを今でも想い出す。
米国側は、補償の一端として5年間にわたるPTSD(心的外傷後ストレス障害)対策費の負担を決定、2002年11月には、被害者33人に約16億7000万円の賠償金支払いも決まった。
何をしてもらっても被害者の心の傷は痛々しく残る。だが、悲しみを減ずるべく米国側も誠意を尽くしたと思う。そして今、元艦長の訪日である。元艦長は「自分もいっしょに沈みたかった」と涙して謝罪したという。その謝罪を学校側が拒否したと報じられた。生徒たちを人間として教え導く学校であればこそ、悔い改めた人物の謝罪を、寛く深い心で受け止めるべきだった。元艦長の謝罪を受け入れつつ、犠牲者を忘れないことが、傷ついた人びとに前向きの力を与えてくれるのではないか。