「小手先の対応はもはや限界 首相の靖国参拝とその真意」
『週刊ダイヤモンド』 2002年5月11日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 444回
4月21日、小泉首相が靖国神社にお参りした。この日は春の例大祭初日で清祓(きよはらい)の日にあたるそうだ。
「内外に不安や警戒を抱かせない一番いい時期だと思った」と首相は述べた。加えて、8月15日も参拝するのかと記者に問われて「しません。一年に一度です」と答えている。
新聞各紙はさまざまな反応を示しているが、私がつい想い出したのは『日本軍の小失敗の研究』という三野正洋氏の著書である。光人社から7年前に出版されているが、秀れた本であるから記憶されている人も多いことだろう。
同書には、日本軍の犯した多くの失敗事例が具体的に書かれている。読めば哀れで、胸に迫る事例ばかりである。たとえば1944(昭和19)年3月から始まったインパール作戦。インドとビルマの国境の町の名を冠した同作戦の目的は明確でなく、「陸軍の存在を誇示するのが最大の目的であったのではなかろうか」と三野氏は書く。
補給をまったく考えずに展開された作戦のなかで、12万の兵は食糧もないまま密林をさまよう結果となる。12万の兵の半数近くが死亡、その70%が餓死もしくは病死であったという。戦死でなく、餓えで多くの軍人が命を落としていかなければならなかった状況とは何か。しかも、過度に精神性を強調するこの種の作戦を定めた上官に対し、部下は意見を述べることもできなかったのが、当時の現実だった。
補給といえば食糧だけではない。武器弾薬も重要である。日本陸軍の最重要武器に三八式歩兵銃があった。1905(明治38)年に採用されたこの銃で、日本軍は日露戦争以降のすべての戦争を戦ったわけだ。三野氏の書によると、この銃は「口径6・5ミリ、全長1・28メートル、重量4・0キロ」。欧米諸国の銃も同じようなものだった。が、太平洋戦争当時の日本人男性の平均体重は53キロ、身長158センチ、欧米人よりはるかに小柄だ。同じ戦場で相手と戦うとき、小柄な日本兵たちにかかる銃の負荷は見過ごせないほど大きかったはずだ。ここにも、現実の欠陥を改善するよりは精神の強さを必要以上に強調する考えが見える。
そして驚くことに、三八式歩兵銃の部品は、工場が違えば使えなかったというのだ。理由は部品公差が統一されていなかったからだ。公差は「機械加工のさい、工作物の許容できる最大寸法と最小寸法の差」であると三野氏は解説しているが、公差の統一性がない場合、精密部品の交換は不可能なのだ。
こんな話は陸軍だけではなく、海軍もまた、同じ構造の問題を抱えていた。食糧の補給も部品の補給も儘(まま)ならない状況の下で、多くの軍人は戦い、そして戦死していった。
故郷、家族、さらには祖国を守るために、自分の身をもって任務を遂行して果てた先人たちのことを思えば、靖国にお参りするのは年に一度でよいというわけではないと思うのだ。
首相は中国や韓国などからの反発を念頭において行動したと思われるが、中国は阿南惟茂大使を呼び「いかなる形式、いかなる時期でも、指導者の靖国参拝に断固反対する」と強い調子の抗議をした。韓国も「軍国主義の象徴」を参拝したことに「深い遺憾を表する」としている。日程を考え、回数を限ったからといって、かの国々が日本の総理の靖国参拝を受け容れることはありえない。だからこそ、日本政府は小手先の対応はしてはならないのだ。
靖国参拝は、それが国と家族のためであると信じて戦死、餓死、病死したすべての人びとを慰め敬うためである。軍国主義とは無縁である。これをしっかりと中国や韓国に伝え続けるとともに、言いたいことも言わずに命を落とした人びとに心からの哀惜を表すために、年に一度などと言わず、何度でも靖国神社に行ったらよいと思う。