「 鯨は食べるべし 」
『週刊新潮』 2002年2月14日号
日本ルネッサンス 第6回
去る1月22日、鹿児島県薩摩半島先端の加世田市と大浦町の海岸に押し寄せたマッコウ鯨の大群は、その後どうなっただろうか。
1頭は人間の懸命の救出作業もあって無事海に戻ったが、残り13頭は死んでしまった。内1頭は砂浜に埋められ、12頭は海に投棄された。加世田市役所総務課の説明である。
「大浦海岸から3隻の船で鯨を引っ張って移動させました。最寄りの漁港から今度は陸路を埋め立て地まで運んだのです。ところがこれが43トンの重さです。クレーンで積んでトレーラーで運びましたが、余りの重さに沈み込んでしまうのです。そんなこんなで1頭の運び込みに10時間もかかりました。26日の真夜中から徹夜作業で、午前10時にようやく1頭、片づいたのです。残り12頭は諦めました」
直接の責任者である大浦町役場の担当者が言葉を継いだ。
「12頭は海に戻します。でも巨体の鯨はなかなか沈みませんから重りをつけるので大変な作業です。
町の内外から鯨肉を分けてほしいという申し込みが沢山ありました。けれど県経由で水産庁の通達があり漂着した鯨は食べてはいけない、逃がすか、死んでいる場合は焼却又は埋却せよと言われています」
「漂着した時はピチピチしていて元気そうだったのに」「昔の人は喜んで食用にしたんですがね」と、担当者は述べた。周知のように伝統的な日本文化の中では、鯨は肉のみならず、皮もヒゲも、残すところなく活用されてきた。
だが水産庁はそんな日本の文化を否定する上の措置を2001年7月1日に省令で施行した。背景には極めて特異な鯨に関する国際社会の世論がある。長年鯨問題に関わってきた衆議院議員の中田宏氏が指摘した。
「ニュージーランドの先住民で少数民族のマオリ族は、打ち上げられた鯨の皮で伝統工芸を作ります。それだけで反捕鯨団体から悪し様に非難されています。ですからいくら打ち上げられたといっても、我々が鯨を食べれば反捕鯨運動の格好の非難の的となります。理屈や科学が通じないのが鯨の国際世論なのです」
中田氏の指摘のように、鯨をめぐる国際捕鯨委員会(IWC)の立場は、超理の感情論で支配されている。それは政治によって巧みに利用され、経済、資源面で人類に深刻な問題を突きつけるまでになっている。
本来ならば天の授けた恵みとして、食し活用してよいはずの大浦海岸のマッコウ鯨だった。この種の鯨は資源調査では十分な頭数が棲息し絶滅の危機など影さえもない。にもかかわらず、人口3000人の小さな町には負担しかねるような費用を使って埋めたり投棄したりしなければならない。なぜこんなことになったのか。話は1972年に遡る。
72年にストックホルムで国連人間環境会議が開かれた。国際会議として、はじめて環境の2文字を冠につけた会議で、米国が突然、「鯨は絶滅に向かっている。商業捕鯨の10年間のモラトリアムが必要」との主張を展開したのだ。
専門家の目には無謀で非科学的な同主張は、再選を控えたニクソン大統領によって考えられたと推測されている。環境会議の開催国、スウェーデンのパルメ首相が米軍の北ベトナムへの爆撃や枯葉作戦を激しく非難し、環境会議で糾弾すると予告しており、ニクソンはその非難を回避するために鯨保護を持ち出したと言われている。
だが、IWCの科学委員会は、72年のモラトリアム提案を科学的根拠に欠けるとして全会一致で退けた。ところが米国はその後強力なロビー活動を続け10年後の82年に商業捕鯨の一時停止を決議させたのだ。
このときIWCは82年のモラトリアム実施時に、遅くとも90年までに商業捕鯨を再開するとしていた。再開のためには捕鯨ルールの改革が必要だとして作業に取りかかった。新しいルールは鯨を保護しながら資源として活用するための管理捕鯨の方程式、監視システム、鯨の頭数調査の基準、科学データの信頼性基準の4点で構成される。
上の4要素は科学委員会に集まった各国の科学者たちが、感情論、政治論とは異次元で仕事をこなし、科学者の自負に応え得る調査を行い新方程式も作り終えて、全てクリアした。だが、90年をすぎてもIWCの総会は商業捕鯨再開の決議をしようとはしない。
そんなIWCに嫌気がさして科学委員会議長、フィリップ・ハモンド氏が辞職したのは93年のことだ。
「IWCが科学委員会の答申を棚ざらし」「IWCは科学とは無縁」として、現在のIWCの下に科学委員会が存在することは意味がないとまで述べての辞任である。
国連食糧農業機関(FAO)も「全面禁止の根拠は倫理的基盤から生まれてきたものでありIWCの権限外のこと」と厳しい批判を述べている。
82年のモラトリアム決定以降、これまでに鯨は2倍に増えた。海には、種類によっては多すぎる数の鯨が棲息するとみられている。鯨の増加がもたらす影響は深刻かつ多岐にわたる。鯨は全人類の消費する漁業資源9000万トンの3倍から6倍の魚を食べているからだ。人間同様、サンマ、スケトウダラ、スルメイカ、カタクチイワシ、タコ、イカ、マグロなど大量の漁業資源を消費し、人間と競合しているのだ。
海洋資源の減少は、世界の漁船の数と漁獲量を3割削減すべしとの98年のFAOの声明につながった。世界の総人口の増加と食糧危機に備えて、海洋資源保護を目指した措置である。
一方で人間による海洋資源の消費を量的に減らしていくだけでは不十分だとの見方もFAOは明確に打ち出した。それが95年の「食糧安全保障のための漁業の持続的な貢献に関する国際会議」(京都会議)で海洋生態系の全ての要素を利用するとの方針の確認である。鯨とは書かれていないが、鯨資源の活用を念頭においての方針だった。
「鯨を殺してはならないとの議論は人間が海を手付かずにしておくのなら認めます。けれど他の魚を食糧にし、他方で海の食物連鎖の頂点にいる鯨だけを保護するのなら、それは生態系の破壊につながります。人間の傲慢以外の何物でもありません」
人間の傲慢と中田氏は指摘したが、これは特定の文化の他の文化に対する傲慢でもある。科学論でいけば、鯨は食べる方がよいのだ。加えて、打ち上げられた鯨を、巨額の税金を使って埋めたり捨てたりせずに、感謝して食すことが鯨の命をまっとうさせる道である。それがまた日本の文化である。その点について日本は、強硬な反捕鯨国相手にどう論陣を張り、説得していくか。
中田氏は、票にもならない鯨に取り組むのは、これがまさに国際政治のケーススタディだからだという。国際政治は正論が通用するなどという甘いものではない。軍事も経済も金融も同様で、鯨を通して日本は外の世界との付き合い方を学んでほしいと強調する。
こうしてみると学ぶべき外交の要諦は鯨にありとさえいえる。折りしも今年5月にはIWCの総会が下関で開かれる。その準備会が今月、豪州で開かれる。日本よ、発奮せよ。