「 戦い続けた論客、屋山太郎さんを惜しむ 」
『週刊新潮』 2024年5月2・9日合併号
日本ルネッサンス 第1096回
また一人、論客が逝った。4月9日、屋山太郎氏である。私の師であり、筆一本で人生を完(まっと)うすることをどんな時も後押しして下さった大先輩だ。報を受けて御自宅を弔問した際、屋山さんはただ眠っておられるだけのような穏やかな表情だった。
筋の通らないこと、卑怯なこと、公益に反することなどに対して、屋山さんは歯切れよく啖呵を切った。相手が旧国鉄のように深く暗い闇を抱える巨大組織であろうが、左翼イデオロギーに凝り固まった性根の悪い日教組であろうが、農家のためと言いながら農家に寄生する全農であろうが、屋山さんは果敢に挑んだ。国益に資することなく、徹頭徹尾無為無策だった某首相を「暗愚の宰相」と命名し木端微塵に打ち砕いた。
こんなことから屋山さんは「ケンカ太郎」とも呼ばれた。そのケンカはそんじょそこらのケンカではない。三十数年前、横浜の新居で御手製スパゲティをご馳走になったとき、屋山さんが語った。
「連中が放火すると脅してくるが、この家は滅多矢鱈には燃えない。コンクリートで造ったんだよ」
ギョロッと目を剥いて、どうだ、という風に笑った。腕白大将のような稚気にあふれ、頗(すこぶ)る愛すべき屋山さんの傍らで、愛妻の鳩子さんが困ったような表情で合いの手を入れた。
「おまけに縄梯子まで準備したのよ」
屋山さんの言論を憎む勢力の中には旧国鉄に巣食っていた左翼勢力がいた。或る日、屋山さんや旧国鉄改革の立て役者、葛西敬之氏らと語っていると、屋山さんがこう言った。
「連中は口だけじゃない。本当に殺しに来るからね」
屋山さんは葛西さんらと共に、中曽根康弘首相の下で、二十数万人の自衛隊をも超える巨大労組と戦い、世紀の改革を成し遂げた。旧国鉄の闇を鋭く暴き続けた屋山さんは彼らの攻撃対象のひとつだった。放火、闇夜の襲撃、家宅侵入、どれも要警戒だ。そうした中で陽当たりのよい高台に自宅を構え庭にさくらを植えた。少し分かりにくいところに脱出口をつくり、縄梯子を備えつけた。
「深夜の出会い」
「侵入されたらあの窓から縄梯子で脱出するんだぞって、太郎さんは言うのね」
ほろほろと笑う鳩子さんを屋山さんは何ともいえない優しさに溢れた表情で見つめていた。大事な家族まで巻き込むかもしれない命懸けのケンカの真っ只中でのひとときだった。戦って戦って、戦い続けた天晴れな先輩は眼前で白一色に包まれ穏やかに眠っておられた。
最後にお会いした日、屋山さんは酸素吸入の管をつけてはいたが、お元気そうだった。私たちは3時間余りも語り続けた。そもそも私たちはどこでどのように出会ったのか。これは私たち二人のお気に入りのストーリーだ。
「私たち、深夜の出会いですよね」
「そうなんだよ。真夜中に会ったんだよな」
そこで私たちは笑いくずれるのだった。まだ私がNTVの夜のニュース番組『きょうの出来事』のキャスターだったとき、月刊誌『諸君!』の原稿を書き上げるために、番組終了後の24時すぎ、紀尾井町の文藝春秋本社に行くことがままあった。文春本社の6階が編集部だ。当時、デスクの立林昭彦氏らが締め切り間際の原稿を辛抱強く待ってくれていた。メールはおろかファックスも自宅になかった時代、原稿の遅い私は片隅のブースで20枚か30枚の記事の仕上げをする。
そんなとき、もう一人、近くのブースで書く人がいた。始終煙草を吸っていた。夜明け前に脱稿しようと、二人とも集中して書く。話などしない。そんなことが2回か3回あった。すると或る夜、その人が話しかけてきた。屋山さんだった。だから私たちは互いに言うのだ。「さる場所で、夜中に出会ったんですよねぇ」。そして声をたてて笑うのだ。
病床の屋山さんが「話したいことがある」と声をかけて下さり、私は3月11日、御自宅に向かった。大事な話があるはずなのに、私たちは前述のようなたわいない会話で時間を過ごした。そして屋山さんがポツリと言った。
「もう書けなくなった。『正論』のコラムもやめた」
私は一瞬だけ迷った。けれど、先程来、鳩子さんにお茶を頼んだりしながら、お元気そうだ。話したり笑ったりなさっている。だから言った。
「そんなの駄目ですよ。第一、屋山さんのおかげで私は物書きになった。相談したとき、自信をつけて下さったのは屋山さんでしたよ」
27年前、私は週刊新潮編集長の松田宏氏から連載を依頼された。5頁立ての特集を連載せよというのだ。5頁立てはかなり長い。毎週書けるか。やり通せるか。屋山さんに相談すると、一も二もない。
「即、引き受けるのが正解だよ。原稿依頼は全部引き受けなさい。それが物書きなんだよ」
哀しい後悔
その結果、私は今も書かせてもらっている。そして厚かましくもこんな風に思っている。願わくば死ぬときまで書き続けたい。死ぬときまで論を起こしたい。死ぬときまで問題提起したい。出来るかどうかなんて、分からない。けれどこんな気持ちになったのには屋山さんの激励もある。だから、屋山さん、こんなにお元気なんですから、書き続けて下さい、というようなことを、私は言った。
「タクちゃんもいなくなったしなあ……」と屋山さん。
タクちゃんとは、屋山さんが最も信頼していた時事通信の先輩かつ同志で、深い友情を結んだ田久保忠衛氏のことだ。田久保さんは今年1月9日に亡くなった。寂しそうに言ってから、屋山さんは若い頃の田久保さんのモテモテ振りを語り始めた。
「銀座でも新橋でも、女の子たちは皆んなタクちゃんの周りに集まるんだよなぁ。酒は強いし、男らしくてサッパリしているし。でもね、タクちゃんはあれで純な男なんだよ」
そう言ってクックッと笑ったが、純情なのは屋山さんも同じだ。
「タクちゃんからファックスを貰ったんだよ。『多電多謝。喉が痛くて声が出ない』と。そうかと思ったけれど、急に逝っちゃうなんて」
突然の別れ。伝えきれていない感謝と尊敬。そのことを心残りに思っているのが伝わってきた。最後にお会いした日、屋山さんは開口一番言った。
「僕の死に顔の写真、撮ってね」
「死に際」の聞き間違いか。屋山さん流の今生の別れなのに、私たちは3人一緒に沢山自撮りし、夕方までずっと笑ったり、食事したりした。4月に入って次はいつお訪ねしようかと考えていたとき、訃報が届いた。
屋山さんへの深い感謝、友情というのはおこがましいが心からの敬愛の念を十分に伝えられただろうか。否、まだお元気だと思って伝えきれていない。哀しい後悔が残る中で、比類なく勇気ある論客、屋山さんの死を深く悼んでいる。