「 敬愛する田久保忠衛さんの遺した言葉 」
『週刊新潮』 2024年2月1日号
日本ルネッサンス 第1083回
1月9日、かけがえのない師、田久保忠衛氏が亡くなった。しかし、余り実感がない。なぜだろう。余りにも多くの難事が内外で同時進行中で、考え、対処することが多すぎるからか。
問題をどう乗り越えるか、日本はどうすべきか、心の中でいつも田久保さんと会話をしている。田久保さんならどう考え、どう判断するか。まるで田久保さんとずっと対話しているような気分で、だから中々、実感が湧かないのではないかと、自己分析をしている。
17年前、私たちは日本が危機の中にあると実感し、シンクタンク「国家基本問題研究所」を創設した。日本国立て直しの具体策として掲げたのは教育改革と憲法改正だった。日本をまともな自主独立の国にする方途を、政治に提言して実現しようという決意だった。日本は他に類例のない一貫した長い歴史を有する国だ。豊かな歴史の積み重ねの中で育まれた文化、価値観、国柄を現在に生かし続けて日本国の勁(つよ)さを発揮しようという想いでもあった。
それは、立派な日本人として生きることを目指す試みでもある。「立派な日本人」のお手本は先輩世代の中にいらっしゃる。田久保さんにとってのそんなお一人は父上の長兄、平方龍男氏だった。龍男氏は15歳で失明し、鍼医になった。田久保さんがその著書に龍男氏の言葉を記している。
「私は15歳のときに失明の宣告を受けました。そのときから、不治の病に悩む人たちに対する切実な同情の念がわき起こりまして、はりをもって不治の病を一つでもよいから治して、これらの人々の慰めにもなり、お友だちにもなりたいと考えて、爾来数十年、はりの臨床研究に没頭して参りました」(『激流世界を生きて わが師わが友わが後輩』並木書房)
龍男氏は富や名誉、地位ともまったく無関係に、病人と盲人のために一生を捧げた。その日々を田久保さんは「目の当たりにして育った」と記している。
「食事は一汁一菜と言っていいほど質素、多数の盲人の弟子が住み込み、一人前になる資格ありと判断するや自立させた」
龍男氏は多くの盲人に鍼を教えながら、54歳の時、ギリシャ語の勉強を始めた。70歳までに、点字版のギリシャ語聖書全11巻とギリシャ語・日本語対訳点字辞典全10巻を完成して出版した。なんという偉業か。
田久保さんの御子息、壮輔氏によると、田久保さんは体調が許す最後の日まで、朝起きるとまず新聞に目を通し、英字紙も読み、分からない単語は辞書を引き、関連のニュースや論文をインターネットを駆使して探し読んでおられたそうだ。病床の田久保さんに電話をすると、読んだばかりの論文や本についての感想や教えが返ってきた。田久保さんの頭脳の冴え、国際社会への鋭い目配りに私はいつも舌を巻いた。まさに龍男氏の姿に重なっていた。
「ハンサムでしょう」
田久保さんは私に龍男氏のことを幾度も話して聞かせながら、人間としての心構えを説いて下さった。一、公平であれ、一、信賞必罰の原則を守れ、と。
依怙贔屓はしてはならない。どんなときも公平に。その上での信賞必罰だと繰り返した。きちんと責任を果たし、貢献した者を前向きに評価するのは無論だが、責任を果たさず、わきまえない者には厳しく対処せよとも繰り返した。厳しい指導にはとりわけ心をこめよということでもある。今も私は田久保さんの教えのひとかけさえ、実践できていないと思う。
田久保さんは1993年に慶應義塾大学からニクソンの研究で博士号を取得した学者であるが、他方、和道流空手8段の兵(つわもの)でもあった。2015年8月29日、私は田久保さんのお伴をして和道流三代宗家継承披露の会に参加したのだった。
田久保さんが高校生だったときに弟子入りした和道流二代宗家、大塚博紀先生を偲び、大塚和孝先生が三代目になられたのだ。記録を見ると私は「特別ゲスト」として招かれている。といっても私がそこで何をしたのか、また話したのかは覚えていない。ただ田久保さんの一言が鮮やかに記憶に残っている。
「ハンサムでしょう」
田久保さんはこう言って、朗らかに笑ったのだ。会場には田久保さんの師範、博紀氏の大きな写真が掲げられていた。稽古着に黒帯を締め、両手を膝に、端然と坐っている姿だ。姿勢に隙がなく、表情には曇りも翳りもない。明るく清潔な感じを与える写真だった。
博紀氏は1972年に国際武道院・国際武道連盟から空手道初代名人位十段を授与された。
「柔道の初代名人位十段は三船久蔵、剣道は中山博道ですよ」と、田久保さん。大塚博紀先生を心から敬愛しているのは明らかだった。だから田久保さんは心底嬉しそうに言ったのだ。「ハンサムでしょう」と。西洋風のハンサムとは無縁、断然たる日本男児のハンサムだった。和道流はその後和孝氏が「三代宗家大塚博紀」を襲名して今日に至る。
「安倍さんがいたら…」
田久保さんは国基研での17年間で多くの功績を残した。一番最後のそれは『「政軍関係」研究』(並木書房)だと思う。戦後、軍事を忌避してきた日本では、あるべき政治と軍の関係をおよそ誰も考えてこなかった。私たちは田久保さんを座長として3年かけてこの本を作った。戦後ずっと、自衛隊を国軍ではなく、警察権の枠の中に閉じ込め続けたことがどれほど日本国の土台を歪め、危機に弱い国にしてしまったかを明らかにし、いま日本は何をすべきかを示した研究だ。
中国の脅威が増大するいま、わが国が政治と軍(自衛隊)の相互理解を深めて、軍事的危機への対応を万全にしなければならないことは分かりきっている。だが、安倍晋三総理でさえ、集団的自衛権の一部行使を可能にした平和安全法制の実現にどれほど苦労したか。或る日の研究会で、私はそのことを振りかえり、命がけで平和安全法制を作った安倍総理のような政治家が出てこなければ日本は前に進めないと言った。すると田久保さんは次のように厳しく指摘した。
「安倍さんがいたら、日本の安全保障体制がよくなるかというと、よくならないと思う。そんなもんじゃないと思います。戦争で徹底的に叩かれて、もう芽が出ないように憲法で否定させられた軍隊です。(中略)教育から何からすべて変えていかなければならないのです。いま、その一部だけを我々はやろうとしているのにすぎない」
田久保さんが言って下さっているのだ。
「しっかりせよ。わが国の抱える問題の根はもっと深い。あなたが甘い考えでは、日本も国基研もどこにも辿り着けない」と。
田久保さんに叱咤されながら、これからもめげずに進もうと思う。