「 終戦時、人の為に働いた珍吉と水軍隊 」
『週刊新潮』 2023年12月14日号
日本ルネッサンス 第1077回
尖閣戦時遭難事件・大東亜戦争で日本が敗戦する直前の昭和20(1945)年7月から8月にかけて起きた悲劇について、私は門田隆将氏の近著『尖閣1945』(産経新聞出版)を読んで知った。
大東亜戦争の末期、米軍の沖縄、八重山諸島への上陸を恐れた日本は石垣島住民の台湾疎開を進めていた。石垣島には4、5、6の各月、延べにして1000機を超える米英軍機による空襲があったという。どれほど激しい戦火に見舞われていたことか。第三十二軍司令官、牛島満中将は米軍との戦いで沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)の丘まで追い詰められ、6月22日、自決した。
そうした状況下の6月30日夜、最後の疎開船3隻が約200人を乗せて石垣島から台湾に向かって出港した。3隻を無事に送り届ける任務を命じられたのが「水軍隊」だった。
水軍隊という聞き慣れない部隊は、昭和20年春、米軍の侵攻でズタズタに切り裂かれた海上輸送を補い、石垣・台湾間の水路を確保するために急遽編成されたという。米軍の攻撃で日本軍が軍艦も航空機も粗方失っていた中で、水軍隊には民間の船を徴用して人や物資を運ぶことが期待されていた。
大東亜戦争では軍艦、軍人の損耗率(戦争に参加した員数に対する戦死者の比率)は、6万人を超えた民間の戦没船員、膨大な船舶を喪失して壊滅した日本商船隊のそれよりも低かった。民間の船という船が軍用に供出され、多くの船員が犠牲になったのだ。そうした中、水軍隊は船舶不足ゆえに水没した船まで引き揚げて修理して使っていたという。門田氏は水軍隊に入隊を命じられた26歳の若者、金城珍吉の視点を通して水没船について語っている。
「一度沈没した船は、あらゆる部位に海水が入り込んでおり、丹念に修理と整備を行っても、長期の航行には限界がある」「そこまで日本は追い詰められているのか」
米機の攻撃を逃れるため3隻は、夜の闇の中、出港した。西表島まで6時間、早くも1隻がエンジンの不具合で脱落、船は2隻になった。
“無主の地”
この海域から台湾への最短コースは与那国島に行き、そこから北西へ110キロ、基隆港を目指す航路だ。今後、中国の侵攻で台湾有事が起きれば、台湾在住の邦人や台湾国民はこの逆のコースで沖縄に避難してくることになるだろう。しかし大東亜戦争末期の当時、この海路は米潜水艦に狙われていた。そこで水軍隊は尖閣諸島の魚釣島を目指して北上し、そこから西に転じて台湾を目指した。問題は、魚釣島から台湾までは22時間かかることだ。長い航路は米軍機の格好のターゲットとなる。
懸念は的中し、2隻は激しい攻撃を受けた。1隻は炎に包まれて沈んだ。多くの人が血まみれになって息絶え、或いは負傷した。
珍吉は海に飛び込んでは溺れる人を助け続けた。沈没し始めた船に辛うじてロープでつながっている人も助けた。切れて落ちた吊り便所につかまり、燃える船の下で助けを求める女性の所まで力を振り絞って泳ぎつき、助けた。こうして沈没を免れた最後の船には約100名の疎開者が残った。
再び米機に襲われれば生き残ることは難しい。一刻も早く陸地に上がり身を隠さなければならない。珍吉は難破船と見紛うばかりになった船の、機銃で破損したエンジンも修理した。船を走らせよう。行きつく先には水がなければならない。青い海原に心細く浮かぶ船は一体どこを目指せばよいのか。
疎開者の中にかつて尖閣の魚釣島で暮らした男性がいた。船は台湾よりも尖閣に近い位置にある。男性が言った。魚釣島に行けば真水がある、と。こうして珍吉らは壊れそうなエンジンを騙し騙し操りながら魚釣島を目指した。
島には水路のような船着場があり、島を開拓した古賀辰四郎という人物が整えた水場もあった。往時、島は古賀村と呼ばれ、248人の日本人が住み、アホウドリの羽毛採取や鰹漁で生計を立てていた。尖閣諸島は紛れもない日本国の領土であることを、今に残る資料や水タンク9基の痕跡などが能弁に語り伝えている。タンクに満々とたたえられていたであろう水は酸性度の低い良質な水だった。
門田氏は尖閣諸島が寸分の疑いもない日本領土であることを、尖閣問題の第一人者、下條正男拓殖大学名誉教授の言説を引いて示す。尖閣は1895年に日本が領有を宣言するまで“無主の地”だった。そして中国政府が尖閣の領有権を主張し始めたのは約70年も後の1971年だったことなどを詳しく紹介する。尖閣を中国領土だなどと言わせてなるものかという気持ちが伝わってくる。
国家意思として示す
中国の習近平国家主席は11月29日、武装警察部隊海警総隊の東シナ海担当指揮部を視察した。武装警察部隊は人民解放軍(PLA)に直属する。海警は軍そのもので、わが国の海上保安庁とは性質が異なる。習氏は海警に対して、力を整備し、自らの法的資格を理解したうえで、中国の領土主権と海洋権益を断固として守る能力を向上させよと檄を飛ばしたのだ。
2021年1月の新海警法制定で、海警には外国船が管轄海域で違法行為に及んだ場合、武器使用を含む一切の必要な措置を講ずる権利が与えられた。尖閣海域に当てはめれば、PLAに匹敵する武器を装備した海警が海上保安庁と全面的に戦うぞ、ということだ。彼らは海保の尖閣海域での活動の全て、海保が中国公船に領海からの退去を指示することも違法行為だと見る。
中国の主権や領土だけでなく、「発展の利益」が脅かされた際にも動員を行うとする21年1月施行の改正国防法も海警法も、国際社会には通用しない身勝手な法律だ。しかし国際社会の批判など意に介さない中国はこの3年、自国権益を守るための法制度を整えてきた。結果、中国国内法の域外適用を法的に正当化し、国際社会全体を中国の法でおさめることを宣言した。つまり法的に中華帝国を創り上げてしまった。
本年11月、海警が尖閣領海に侵入した頻度はその前に較べれば倍以上になった。習氏の視察で海警が強硬手段をとることも十分予想されるいま、危険がさし迫っていると見るのは当然だろう。『尖閣1945』を読めば、そうした中国の蛮行を絶対に許さない決意を、改めて国家意思として示すことが大事だとわかる。
珍吉は02年に83歳で世を去った。沈み行く船から救った女性のお嬢さんと自身の子息が結婚するという心ふるえる巡り合わせもあった。珍吉の口癖は「人のことはいくらでもしなさい」だった。この素朴な言葉が、珍吉、そしてあの沖縄戦を生き抜いた人々の互いを扶け合う気持ちの尊さを伝えて余りある。