「 追悼安倍晋三元首相 世界に晒された日本の平和ボケ 改憲に命を懸けた『憂国の宰相』の遺志を継げ 」
『週刊新潮』 2022年7月21日号
日本ルネッサンス 拡大版 第1008回
本誌連載「日本ルネッサンス」の特別対談で、最も多くご登場いただいた政治家こそが、安倍元首相その人だった。志をひとつにしながら実は“緊張関係”にあったという二人。憂国の熱弁を揮った宰相の素顔を、ジャーナリスト・櫻井よしこさんの緊急寄稿で振り返る。
安倍晋三元首相が暗殺された。暗殺犯よ、なぜ殺したのだ。現場にいた警護のプロフェッショナル達よ、なぜ一発目の襲撃で止められなかったのか。なぜ二発目を許したのか。
なぜだ。なぜだ。テロへの怒りと安倍氏喪失の衝激で胸の奥からマグマがせり上がってくる。どれほど地団駄を踏んでも取り返しはつかない。
銃撃時の動画を見ると、SPや警察官らが突っ立っている。護衛の訓練をし、日々、心構えも新たに現場に臨むのであろうが、いざ事に直面すると、誰ひとり動くべきときに動かなかった。否、動けなかった。
犯人は一発目の襲撃を外した。構え直して2.5秒から3.0秒後に撃った二発目で、安倍氏はほぼ即死した。全体がはじかれたように動いたのは、安倍氏が倒れてからだったのが動画から見てとれる。
これが日本か。その姿は日本国憲法前文と9条に重なる。わが国さえ悪事を働かず、平和を守れば、世界の悪しき国々は日本に手を出さない。日本さえ軍備を最小限に、力の行使は慎重に、相手国を刺激せずに大人しくしていれば、脅威は襲ってこないと信ずるパシフィズム国家だ。
自衛隊を軍隊とせず、警察法の枠内でその持てる力を必要最小限にとどめる憲法9条の精神に浸りきったわが国は、ずっと現実から逃げてきた。目をつぶってしまえば迫り来る脅威は見なくて済む。まやかしの安心だ。何も準備することなく、存在しない“親切な世界“に身を委ねてきた。わが国の現実逃避体質の非力さを、安倍元総理暗殺事件が象徴的に炙り出した。
国全体が憲法9条の平和主義の影響下にあるからには、安倍氏暗殺を受けた政府の反応が呆れ果てるものだったのは当然であろう。
世界戦略を描いて真っ当な国家の在るべき姿を説いてきた安倍氏は、これまでの日本には見られなかった稀有な政治家である。日本の宝だ。日本だけでなく先進7か国首脳会議(G7)で、当時のトランプ米大統領、メルケル独首相、マクロン仏大統領やジョンソン英首相らに信頼され、頼られる政治家だった。
そんな首相がかつてわが国にいたか。安倍氏が初めてである。それ程大事な政治家が白昼易々と暗殺された。そのことが抉り出した日本国の脆弱さを中国、ロシアをはじめ世界中が目撃した。わが国を窺う勢力が日本与(くみ)し易しと思っても不思議ではない。
このことの深刻な意味を岸田文雄首相は鋭く感じとって対応しなければならない場面だった。たとえば直ちに国家安全保障会議を招集して対策を発表することだ。日本政府が事の重大性を認識して対応策を打ち出す姿を見せる、即ちわが国はいかなる事態にも十分な危機感をもって対処できると、示すことが大事だ。犯人については厳しく追及する。簡単に単独犯と決めつけず、背後関係も含めて全てを洗い出す決意を示すことが抑止力になる。
だが、岸田政権にはこうした意識が欠けている。それだけではない。日本国首相として、また安倍氏の当選同期生としてこの暗殺事件をどう受けとめたか。首相個人と、日本国政府の心の在り様が伝わらない。岸田氏は日本国の深い怒りと痛恨の思いを明確な形で内外に示すべきだった。
米国政府は7月8日の襲撃当日、ホワイトハウスに半旗を掲げた。バイデン大統領はさらに指示を出して、8日から10日まで米国中の国旗が半旗になった。警察署、郵便局、ガソリンスタンド、スーパーマーケット、学校から個人の住宅に至るまで多くの半旗が掲げられたと、SNSで伝えられている。ブリンケン国務長官は直ちに日本を訪れ弔問した。
英国もフランスもインドも安倍氏の不慮の死を悼んだ。インドは米国同様、3日間半旗を掲げて弔意を表わした。アジアの多くの国々で政府のみならず国民各位が凶弾を憎み安倍氏の死を惜しむ言葉を寄せた。
わが国では、自民党がいち早く永田町の党本部ビルに半旗を掲げた。では政府はどうしたか。国会議事堂、衆参両院議長公邸においても日曜一杯、通常どおりに高々と日章旗が掲げられていた。政府が半旗を掲げたのはようやく11日の月曜日になってからだった。何と感覚の鈍いことよ。
安倍氏は首相になるとき、「日本を取り戻す」と叫んだ。取り戻そうとしたのは日本の価値観だ。歴史を辿れば日本は雄々しさの中にも穏やかな文化を育んだ立派な国である。幾百世代にもわたって日本列島に住みついた先人たちは、人間を大事にし、思いやりを基調とする社会を築いた。だからこそ、安倍氏は第一次政権でまず、教育基本法の改正に取り組んだ。戦後の日本を歪めた元凶である現行憲法改正のための国民投票法も制定した。日本を守る自衛隊を「庁」に据え置いてはならないとして、防衛庁の「省」昇格を急いだ。戦後の日本社会を決定づけた現行憲法の改正が自分の政治使命だと国民に誓った。
頭脳明晰な人
第二次安倍政権では、国の守りを強化する特定秘密保護法や平和安全法制を次々に制定した。その都度、10ポイント以上も支持率を落としたが、安倍氏は戦い、全て成立させた。
私が主宰する「言論テレビ」で、安倍氏がどんな思いで日々政治の場において日本を変えようとしているか、語ったことがある。当日は2015年9月11日、懸案の平和安全法制の審議は山場を迎えていた。民主党は国会での議論を拒否して、デモ隊と一緒に安倍首相批判の声を張り上げていた。
デモの中で法政大学の山口二郎教授が、こう演説した。「安倍に言いたい。お前は人間じゃない。たたき斬ってやる」。またこうツイートした。「日本政治の目下の対立軸は、文明対野蛮、道理対無理、知性対反知性である。日本に生きる人間が人間であり続けたいならば、安保法制に反対しなければならない」と。
蓮舫氏も福島瑞穂氏も同法案を「戦争法案」だと論難した。
私がこの一連の批判について問うと、安倍氏はサラリと言った。
「知性対反知性と言われるのなら、『人間じゃない、たたき斬ってやる』というのは言わない方がいいと思います」「本当にこれが戦争法案なら私も反対します。アジア諸国も反対するはずです。そうではなくて、ほぼ全ての国々が賛成しています。戦争法案のはずがありません」
そしてこう続けた。
「自民党は相手(民主党)を攻撃するよりも、平和安全法制案について、より時間をとって説明したいと思っているんです」
当時の国会での発言録を読めば安倍氏は説明を尽くしている。しかし、野党の大部分は馬耳東風だった。安倍氏はこうしたことの一切を我慢し、支持率低下にも耐え、法案を成立させた。いま、わが国の安全保障に欠かせない日米同盟がかつてなく安定しているのは平和安全法制があってこそだ。
「言論テレビ」でも安倍氏の説明は見事だった。平和安全法制の制定によってわが国は集団的自衛権の行使が、一部だが可能になる。なぜそうしなければならないのか。安倍氏の説明は実によく整理されていた。
・集団的自衛権の政府解釈は40年前のもので、当時はわが国よりも外国を守るためという概念だった。
・外国のためならそれは必要最小限を超えており憲法違反とされた。
・ところがこの40年間に北朝鮮さえ核やミサイルを有し、わが国を狙えるようになった。
・日本へのミサイル攻撃に備えて警戒に当たっている米国のイージス艦が攻撃され、それを自衛隊の艦艇が守らなかったら、日米同盟はその瞬間、大きな危機を迎える。
・米艦船を守ることはわが国の存立と国民を守るために必要で、そのための集団的自衛権の行使はまさに必要最小限の中に入る。
・昭和34(1959)年、憲法の番人である最高裁判所は自衛権を国家固有の機能として当然だと認めた。
・日本国民を守るために必要な自衛のための措置とは何か、政治家が考えなければならない。
・40年前とは違う状況下で、昨年(2014年)、自衛権、集団的自衛権の解釈を変えた。それが平和安全法制だ。
一連の説明を安倍氏は一切の資料を見ることなく、言葉が湧いてくるように行った。安倍氏の理解力と説明能力には、官僚や他の政治家を寄せつけないものがある。頭脳明晰な人である。
緊張感があった理由
安倍氏はその後、祖父、岸信介氏についても振り返った。
「祖父が『岸信介回顧録』で1960年の安保改定時のことを書いています。安保改定で徴兵制に逆戻りするとか、夫が戦場に行くことになるとか、戦争に巻き込まれるという批判があった、ありもしないことを批判されて残念だと祖父は書いています。55年経って、いま、全く同じ言論状況ですね」
祖父と孫は日本がまともな国になるように法制度を整え、占領軍の急拵えの憲法のくびきから日本を解放しようとその一生を捧げた。日本国内では愚かな左翼勢力が岸氏の功績も安倍氏のそれも認めようとしないが、国際社会は安倍氏の貢献を高く評価している。安保法制に賛成の意を正式に表明した国々はアジア諸国を含めて50以上に上る。
さらに、来日したカンボジアのフン・セン首相について安倍氏はこう語った。
「日本にPKO部隊を派遣していただいたお陰で、カンボジアはしっかり成長できた。いまは自分たちがPKO部隊を送り、スーダンで医療活動をしていると言っていただきました。PKOのときも菅直人氏らは非常に強く反対しましたね」
安倍氏は存分に自分の想いを語ったが、それでもこの日の「言論テレビ」に安倍氏は不満だったと思う。私が番組の締めで、安倍氏の課題に憲法改正があると語ったからだ。
ただでさえ難しい平和安全法制に取り組んでいて、もう1,2週間で法案が成立しようかという大事なときに、私はそれよりもっとハードルの高い憲法改正を安倍政権の課題として持ち出した。ひとつひとつ結果を出さなければならない政治家にとっては私の問題提起は余計なお世話だった。
一方、個々の政策の背景にも言及して問題提起するのは、言論人としての私の役割でもある。そして私は時に妥協を許さず、問い詰めすぎる嫌いがある。安倍氏と私の関係は基本的に友好的であるが、常に一種の緊張感があった理由である。
安倍氏と私は確かに同じ方向を向いていた。「日本を取り戻す」と叫んだ安倍氏の気持ちは深く理解できていると思う。けれど、個々の政策になると、微妙な相違も生まれるのだ。対ロシア外交においても、対中外交においても、大きな方向は同じであるのに、眼前の政策については違いがあった。その都度、私は質し、安倍氏は答えた。
2016年12月、首相の地元・山口県長門市と東京で日露首脳会談が行われた。結論から言えば平和条約締結にも北方領土の帰属問題にも進展がないまま経済プロジェクトが先行した。私はこの首脳会談を評価できなかった。
18年9月、ウラジオストクの東方経済フォーラムでプーチン氏がいきなり無条件で平和条約を締結しようと言い始めた。ロシア側の思惑は二つの条約を日本に提示することだった。一つ目の条約で平和と友好、協力を定め、その条約を基礎に、後で国境に関する二つ目の条約を結ぶという戦略だ。
日露交渉の歴史には日ソ共同宣言、東京宣言、クラスノヤルスク合意、川奈提案、イルクーツク声明など、四島返還要求を貫くための苦労が刻まれている。その歴史を一気に飛び越して、小さな島二つの返還にとどまる日ソ共同宣言に逆戻りするのかと、私は懸念した。
安倍氏は四島の要求を続ける限り北方領土問題は動かないこと、島民の方々の高齢化などを語ったうえで、わが国は中露両国を相手にしなければならないとも言った。
中国とロシアが手を結べば、日本にとって最も困難な状況が生まれる。ロシアが衰退し中国の力が増強する中で、安倍氏はロシアを中国側に押しやらない戦略を考えていたのだ。
こうした大戦略の前では、四島か二島かの議論の重要度は相対的に下がる。地政学的大戦略はロシアのウクライナ侵略戦争で潰えたが、安倍氏はユーラシア大陸全体、中露双方を睨み、その大きな枠組みの中に北方領土問題を置いていた。卓越した戦略だと思う。
「松陰先生に似ている」
地元山口県で長年安倍氏を支えてきた人物に清原生郎氏がいる。安倍氏がこう教えてくれた。長いつき合いだが一度も頼まれ事を受けた記憶がない。ただ、13年12月、(現職総理として)靖国神社に参拝したとき、「総理、ありがとうございます」と、お礼を言われた。こういう立派な人たちに支えられている自分は幸せだ、と。
清原氏は吉田松陰の信奉者でもある。氏は「安倍総理は松陰先生と似ているところがある」と語る。信念を貫く意志と、抜群の行動力において共通するというのである。松陰は教育者であり、必ず率先垂範した。
幕末、松陰は急(せ)いていた。早く変わらなければ日本は外国の侵略を受ける。彼は松下村塾の門下に書き送った。「余りも余りも日本人が臆病になり切ったがむごいから、一人なりと死んで見せたら、朋友(ほうゆう)故旧(こきゅう)(古くからの友人)残ったもの共も、少しは力を致して呉れうかと云う迄なり」
松陰は、時代の大変革の中で、なぜ、皆は目醒めないのか、皆を目醒めさせるために自分が死んでみせようかと言っているのである。
「同じような烈しさが安倍総理の中にもあるのでしょうか」と清原氏は穏やかな口調で語る。
松陰は29年の短い人生を駆け抜け処刑された。身分の上下を問わず、来る者全てを受け入れて、教えた。そして皆に、とりわけ女性や子供、貧しい人たちに優しかった。松陰の母への手紙は、平易な仮名文字で、優しい言葉に乗せて母を大切に想う気持ちを綴っている。
「櫻井さん、松陰先生がほのかに心を寄せた女性のことを知っています?」
と、安倍氏が聞いた。
私は『吉田松陰全集』を読みかけているが、そこにはまだ到達していない。そう言うと、安倍氏が返した。
「あの女性(ひと)はね、松陰の初恋の人だと思うんだよね」
安倍氏が少年のようにはにかんだ。
今、手元に一葉の写真がある。昨年12月、下関で一緒に撮影したものだ。総理の表情は優しく、くつろいでいる。こんな優しい表情を見せてくれたのは初めてだ。安倍氏と私の間にいつもあった小さな緊張感は、少なくともここでは消えている。
暗殺される前の安倍氏は、恐らく、これまでの人生で最も充実した段階にあった。2回の首相体験が安倍氏の自信を盤石のものにしていた。まぶしい程に輝き、人生の絶頂にあった。
おだやかな表情で横たわる御遺体の傍らで昭恵夫人は「自分が死んだことを本人は知らないと思います」と語った。
苦しみもなく逝ったであろうと昭恵夫人は言う。
私は想った。安倍総理の魂はいまも生きている。そう考えて、「日本を取り戻す!」と叫んだ安倍氏の遺志を継いでいこうと、決意した。