「 他人事ではない中国の「見えない手」 」
『週刊新潮』 2021年1月14日号
日本ルネッサンス 第933回
米国の歴代大統領は退任後すぐに回顧録を出すのが習性となっている。読者は世界中に存在し、最初からミリオンセラーが約束されている。出版契約料が日本の標準では考えられないほど高額なのも当然かもしれない。たとえばオバマ前大統領夫妻は6500万ドル(約68億円)を得た。私はこの余りの高額に驚きを超えて笑ってしまったが、それでも各大統領の回顧録は読んでみるのがよい。
歴代米大統領の中で中国の工作を最も深刻な形で受けていた一人は、間違いなく民主党のクリントン氏であろう。ヒラリー氏があれ程頑張っても初の女性大統領になれなかった原因のひとつに、中国マネーの影響があるのではないか。クリントン夫妻の中国マネーにまみれたイメージが、ヒラリー氏の道を閉ざした可能性は高いだろう。その中国の魔の手が民主党だけでなく共和党にものびていたという衝撃的な事実を『見えない手』(飛鳥新社)が見事に報じた。
著者はクライブ・ハミルトン氏とマレイケ・オールバーグ氏だ。ハミルトン氏は豪州への中国の侵略を詳述した『目に見えぬ侵略』の著者である。
中国共産党の工作を描き尽くす作品第二弾としての『見えない手』は、侵略の舞台を北米大陸と欧州に絞っている。どの国の事例も深刻だが、米国共和党の取り込み、とりわけブッシュ家への工作は凄まじい。
ジョージ・W・ブッシュ氏の回顧録、『決断のとき』(Decision Points)には、両親の愛情を一杯に受けて育った素直な人物像がにじみ出ている。大酒飲みで、失敗も仕出かした若きブッシュ氏が結婚し、40歳で酒を断ち、キリスト教への信仰を深めていく姿は素朴で実直な人間像そのものだ。
ブッシュ氏の大統領としての評価には様々あろうが、私の疑問のひとつはブッシュ家と中国の関係だった。父ブッシュは1974年から76年まで北京連絡事務所長、76年から77年まで中央情報局(CIA)長官を務めた。レーガン大統領に副大統領として奉じ、89年から93年まで大統領として、中国の天安門事件に対処し、湾岸戦争を戦った。彼は天安門事件で中国が国際社会の経済制裁を受け締め出されたとき、事件からひと月後の89年7月に秘密の使節団を北京に送り込み善後策を話し合っている。
甘い誘惑
国際社会による経済制裁の輪を突き破ったのは表面上わが国の海部俊樹政権だったが、実際はいち早く中国救済に動いたのは米国で、その立役者が父ブッシュだった。
中国は父ブッシュを「古い友人」と呼ぶ。右の呼称は中国に多大な貢献をした世界的な人物に与えられるもので、キッシンジャー氏らが受けている。このように父が中国と親しい関係にあったにも拘わらず、息子ブッシュ氏は大統領に就任するや、前任のクリントン大統領による米中は戦略的パートナーという定義を否定し、中国を戦略的ライバルと位置づけた。米国の甘い対中政策を変えようとしたかに見えた息子ブッシュ氏の路線は大統領就任1年目、2001年の9・11事件で大きく変更された。ブッシュ氏は中国の江沢民国家主席をテキサス州クロフォードにある自分の別荘に招き、ライバル路線から共にテロと戦う協調路線に切り替えていった。
その間中国側が息子ブッシュ氏の弟たちに注目していたことが、その後の展開から見てとれる。フロリダ州知事だった弟のジェブ氏が16年の大統領選挙に出馬したとき、中国は130万ドルを献金した。実際に献金したのはカリフォルニアの不動産開発会社経営者のゴードン・タンとシンガポールに拠点を置く陳懐丹で、二人はパートナーとされている。
ジェブは早々に選挙戦から脱落し、中国の当ては外れたかに見えた。しかし、二人の中国人富豪はそれ以前の13年から、ブッシュ家の三男、ニール氏を彼らの会社「新海逸」の非常勤会長として囲いこんでいた。
ニール氏は「ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)中米関係財団」を創設、会長に就任し、ブッシュ家の中国資産を引き継いだ(『見えない手』)。財団は「中国人民対外友好協会」と連携関係にあるが、同協会は中国共産党の統一戦線工作団体である。
ニール氏が中国側からさまざまな働きかけ、甘い誘惑を受けたであろうことは容易に想像できる。たとえば19年6月24日、中国共産党機関紙の「人民日報」はニール氏の発言を熱狂的に報じたという。
伝えられるところによると、ニール氏は、➀中国はより成熟しつつあるが、米国の民主制度には欠陥がある➁米国の政治家たちは米国人が中国を問題視するように洗脳している➂米国は貿易障壁を中国を責め立てるための政治的武器として利用している、などと語っている。
エリートと娘を結婚
ハミルトン氏はニール氏のさらなる発言も紹介している。たとえば、国営放送の中国国際電視台の取材で「中国の人々の自然な優しさと贈り物を贈る習慣」に感嘆したと語ったが、これは自分を手なずけた中国の手法を白状するものだ。
ニール氏はさらに「中国で人々が享受している自由の台頭を見れば、米国人は中国に対する見方を変えるはずだ」などとも語っている。
ブッシュ家は共和党を支える名門政治家一族である。無論、米国の政治の変化はダイナミックで、ブッシュ一族の影響力がどれ程大きく長く続くかは保証の限りではない。しかし、中国の浸透工作は極めて巧みに構築され、注ぎ込まれる経済的資源は莫大である。米国のみならずカナダ、欧州諸国の事例をみると、各国のエリート層を取り込む手法では巨額のカネと利権に加えて女性が活用されている。これと見込んだエリートと娘を結婚させる手法だ。
もちろん結婚には互いに愛情が必要だ。それにしても共和党のミッチ・マコーネル上院議員のケースには考えさせられた。上院の与党リーダーとして大統領に次ぐ強い力を持つ氏は、かつて対中強硬派だった。それが1990年代以降、「有名な対中融和派」になったと分析されている。
氏は93年に中国系米国人で江沢民の同級生ジェームズ・チャオの娘、イレーン・チャオ氏と結婚した。ジェームズ氏の所有する海運会社は中国の国有企業と密接な関係にある。娘のイレーン氏は息子ブッシュ政権で労働長官を、トランプ政権で運輸長官を務めた。ジェームズ氏は2008年、娘夫婦に数百万ドルを贈与し、マコーネル氏は最も裕福な議員の一人となり、共和党を親中路線に導くべく働いてきたと分析されている。
中国の深い企み、考え抜かれた戦術・戦略に、私たちが晒されているのは明らかだ。しかし、世界を中国の価値観で染められてたまるものかと思う。そして改めて日本の現実を見つめると、黒い不安が広がる。孔子学院、千人計画、親中派議員と財界人。日本にも伸びているはずの「見えない手」の実態を抉り出す時だ。