「 しつけと体罰を混同してはならない 」
『週刊新潮』 2020年1月2・9日号
日本ルネッサンス 第883回
令和2年4月から、家庭における子供の教育に法律が関わってくる。本来なら両親の責任で行うべき子育てとしつけが法律で規制される。
発端は、しつけと称して親が幼子を虐待し死に至らしめるという、余りにも酷い事件の多発である。これ以上幼い命を犠牲にしてはならないとの政府の決意を反映して、令和元年6月、「改正児童虐待防止法」が可決・成立した。それに伴って厚生労働省は、体罰に関する指針案を12月3日に示した。広く国民の意見を聴いたうえで、何が体罰で何がそうでないのかを具体的に示すことになるこの指針は年度内にまとめられる。
恵泉女学園大学学長の大日向雅美氏が座長となってまとめた「指針」には、「たとえしつけのためだと親が思っても、身体に何らかの苦痛又は不快感を引き起こす行為(罰)である場合は、どんなに軽いものであっても体罰に該当し、法律で禁止されます」と明記されている。
具体的事例として「口で3回注意したけど言うことを聞かないので、頬を叩いた」「大切なものにいたずらをしたので、長時間正座をさせた」「友達を殴ってケガをさせたので、同じように子どもを殴った」「他人のものを盗んだので、罰としてお尻を叩いた」「宿題をしなかったので、夕ご飯を与えなかった」などを示し、これら全てを「体罰」としている。
体罰をなくすとの決意は尊重する。だが、本当にこのような内容の法律を家庭内に持ち込んでよいのか。
「何らかの不快感」を引き起こせばどんなに軽いものでも体罰であり法で禁止するというが、子供の自律心や忍耐心を育てるには、子供の心に不快感を引き起こしてでも教えることが必要である。かつて会津藩で実践されていた、子弟教育における「什の掟」のように、「ならぬことはならぬものです」という不動の真理の教えは放棄してはならないだろう。
体罰としつけは全く異なる。両者の相違を明確にした指針でなければ、すでに大きく綻んでいる日本の家庭教育を、政府の策がさらに退化させることになりかねない。
「情動教育」
そもそも子供への体罰や虐待はなぜおきるのか、その原因を分析し、根本的な対策を探らなければ、体罰禁止を法制化しても、真の解決などあり得ないだろう。教育問題の専門家でモラロジー研究所教授の高橋史朗氏は、日本の親の保護能力が著しく低下していると指摘する。
「必要なのは優しさと厳しさのバランスがとれた子育て支援なのです。体罰に関する指針案が、体罰の名の下に子供に対するしつけや指導そのものを否定するような誤解につながれば、教育の荒廃に拍車がかかり、教育再生を逆行させかねません」
親が子供にしてやれることの第一は、子供が一人の人間として自らの人生を切り開いていけるよう、その能力を育む下地を作ってやることだ。人生を前向きにとらえ自らを律する自制心、忍耐心、他者に共感し協調する能力、人間としての思いやりや優しさ、豊かな感受性を育む教育が大事である。このような資質を「非認知能力」と言い、高橋氏はそうした能力を育む教育を「情動教育」と呼ぶ。
計算やものおぼえがよいという知的能力以前に、人間としての感受性や優しさを育むのが情動教育だ。「情動」能力はどのようにすれば育つのか。日本でも世界でも、この点について科学の知見を導入する努力がなされている。
2001年の国連児童基金(ユニセフ)「世界子供白書」には、スリランカの二つの家庭の子育て事例が紹介されている。電気も水道もなく、土の床にワラのござを敷いて休むという貧しさにおいて、二つの家族は同じ境遇にある。しかし、各々の家庭で子供の成育状態は大きく異なっているというのだ。
一方の家庭はユニセフの専門家の指導を受け、親が子供たちを抱きしめ、肌で触れ、話しかけ、歌い、おもちゃの家をつくってやり、将来の夢を語りきかせながら育てている。結果子供たちは活発な明るい子に育っている。もう一方の家庭はそうした機会に恵まれずに子育てをした。幼い兄妹二人は仲がよいが、他者に対しては「刺すような黒い眼」で、「まるで口をきか」ないと書いてある。
「白書」は右の二家族を紹介した後、「0~3歳の時期の重要さ」という小題を掲げている。
「乳児は抱かれ、触れられ、愛撫されると、よく成長する」として「子どもに応える暖かいケア」の重要性を指摘しているのだ。これこそ日本の子育ての常識だった。古来、日本人は「三つ子の魂百まで」と言いならわしてきた。子供は少なくとも3歳までは家庭でしっかり育てることが何よりも大事で、3歳までの育て方で子供の心の成育が定まり、その先の人生に大きな影響を及ぼすことを、私たちの先輩世代は体験で知っていたのである。
「1000億個の脳細胞」
ユニセフが白書で強調したことのひとつが、子供の脳の健康な発達を促すには最重要のタイミングがある、3歳頃までの幼い時期だという点である。白書はざっと以下のように書いている。
「脳内の細胞の接合は生後3年間に爆発的に増殖し、子どもは目覚めている事実上すべての瞬間に新しい事柄を発見している。新生児は1000億個の脳細胞をもつが、大部分はまだ互いに接合されておらず、脳が機能するためには神経細胞の相互間の何兆もの接合部(シナプス)によって脳細胞がネットワークに組織されなければならない」
子供の脳は胎内にいるときからさまざまな刺激を受けて育っている。脳科学の研究は、生後5日の乳児が早くも言葉を聞きとっていることもつきとめた。だからこそ、生まれたばかりの赤ちゃんに親の愛を伝えることが大事なのだ。
それを日本人は実践してきた。子供を抱いておぶって肌と肌の接触を重ね、赤ちゃんの目を見詰めて言葉をかけ、優しい表情であたたかい気持ち、子供を大切に思っているという感情を伝えてきた。脳科学の研究は、こうした親と子の触れ合いが子供の脳に大きな刺激を与え、何兆ものシナプスが生まれ一瞬の内に脳の発達が促されることを証明した。幼な子の脳の柔軟性や成長の無限性には人智を超えたものがあるが、逆に言えば、必要なケアを受けられず、飢餓、虐待、放置を経験すると、幼な子の脳の発達は損なわれ得ることを意味する。
本来、家庭教育は、このような理解と認識に根ざすべきだと高橋氏は強調する。「法律で体罰を禁ずる以前に、昔ながらの『しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせろ』という家庭での子育てを可能にする施策こそが大事です」。
高橋氏の助言こそ、貴重である。