「 香港危機、日本は北京に厳しく警告せよ 」
『週刊新潮』 2019年9月5日号
日本ルネッサンス 第866号
1週間前の8月18日、香港で170万人、住民の約4分の1に当たる群衆が街路を埋め尽した。中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案に反対するデモだ。参加者数は凄まじかったが、デモは全体的に統制がとれており、香港人は中国政府の非民主的香港政策を拒否するとの強いメッセージを、全世界にきちんとした形で伝えた。
人口750万の香港は14億の北京に力で勝てるはずはなく、国際社会の道理を味方にするしかない。香港人は国際社会の賛同を得るべく、また北京政府につけ入る隙を与えないよう、街頭活動も暴力的局面に至る前に、さっと退いている。
ところがその1週間後の25日、香港警察はデモ隊に初めて発砲し、人間を吹き飛ばす程の水圧で鎮圧する放水車も初めて導入した。
発砲の理由を、香港警察は26日未明の記者会見で、「生命の危険があり、6人の警官が拳銃を抜いた」、「うち一人が空に向けて威嚇射撃した。必要で適切な行動だった」とし、発砲を正当化した。だが、説明をそのまま受け入れることはできない。
北京政府は強い力で香港の自治権と香港人の自由剥奪を試みる。デモ終息に向けて軍事介入も止むなし、の方向に向かっている。この決定は、8月1日から11日まで開催された北戴河会議で定められた。「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が語る。
「10日余りの会議の前半はかなり紛糾して、長老たちが習近平を批判したといいます。米中貿易戦争も香港問題も何ひとつ上手くいっていないからです。しかし長老たちにも名案はない。10月1日の建国70周年も近づいてくる。それまでに香港問題を解決しなければならない。それで軍介入という強硬手段も仕方がない、という結論になったのです」
その場で反対したのは朱鎔基元首相ただ一人だったという。北戴河会議に出席する長老たちには香港問題の早期解決を欲するもうひとつの理由がある。
香港人を悪者にする
たとえば温家宝元首相の息子やその妻らが香港利権にどっぷり浸かっている事例が2012年10月に「ニューヨーク・タイムズ」紙で特集されたように、長老たち全員が香港利権の受益者だと考えてよい。彼らは甘い利権の蜜をすする邪魔をされたくない、早く混乱を鎮めてほしいのだ。
北戴河会議終了直後に、二つの顕著な動きがあった。まず、12日、北京政府は香港に隣接する広東省深圳(しんせん)に10万人規模の武装警察を集結させ、その映像を国営メディアで報じさせた。同日、中国政府は香港での抗議活動に「テロリズムの兆候が現れ始めた」と批判し、香港の裁判所は抗議運動参加者に撤去命令を発した。命令に従わなければ逮捕も当然という法的条件が整えられたのだ。
第二の動きは楊潔篪(ようけつち)中央政治局委員が訪米し、ポンペオ国務長官と会談したことだ。楊氏は米国側に、香港問題解決のために強硬手段もあり得ると説明したと見られる。
この間の8月9日、学生や市民らは香港国際空港に集結し始めた。11日には香港市内のデモで警官が至近距離から水平に構えて撃ったビーンバッグ弾が、女性の右目を直撃し、女性は失明したと伝えられる。無残な映像は瞬時に拡散された。市民らは強く反発し、12日も空港を占拠し、午後全便が欠航した。警官が市民を装ってデモ隊に潜入し、暴力行為を煽っていたことも判明した。
約1世紀、イギリスの統治下で民主主義を楽しんだのが香港人だ。彼らの骨身に刻まれた民主主義を踏みにじる習氏の戦略が成功する地合は香港にはないだろう。矢板氏が語る。
「結論から言えば習近平は悉く失敗したのです。学生や市民らは、北京政府の思惑を警戒して、13日以降、さっと退いた。米国では、それまで香港に関心を抱いているとは思えなかったトランプ大統領が、14日になって急に『香港問題は人道的に解決すべきだ』と発言しました。18日にトランプ氏は更に踏み込んで『天安門事件のようなことになれば中国との貿易問題でのディールははるかに難しくなる』と牽制しました。すべて藪蛇になったのです」
北京政府の狙いは、香港人が襲撃したという状況を捏造して、香港人を悪者にすることだ。そうすれば香港基本法18条を適用できる。18条とは、「動乱が発生して」「緊急事態に突入」した場合、中央人民政府、つまり北京政府は中国の法律を香港に適用できるというものだ。
現在の香港の秩序は「一国二制度」の下で守られている。だが、18条を適用すれば、香港の法秩序全てを白紙にして、中国本土と同じ法の下に置くことが可能になる。
最も強い声を発する責任
矢板氏の説明だ。
「抗議行動に参加して拘留されている香港人はいま、700人です。投石などはみんな微罪です。彼らはすぐに釈放され、ヒーローになりますから、北京から見ると逆効果です。中国の国内法を適用すれば何千人も何万人も逮捕して、中国本土に連行し懲役15年とか20年、無期にしたり、拷問も虐殺も可能になります。中国共産党はこの種の強硬手段で抗議活動を終息させられると考えているのです」
そうした中、冒頭の170万人参加の8.18抗議行動が行われた。共産党のやり方を知悉する香港人だから、8.18デモでは一切の暴力行動を慎んだ。卵やトマトも投げてはならないと申し合わせた。中国に口実を与えないように賢くデモをした。
にも拘わらず、1週間後の8月25日の抗議集会では、警官を「生命の危険」に突き落とす暴力行為があったという。果たして事実か。
実は、デモ隊の中に香港人ではない大陸の人間が紛れ込んでいて、警官に殴りかかっていた事例が判明した。その映像もSNSで広く拡散された。矢板氏は、天安門事件のときも同じだったと語る。
「あのとき市民の中に大量の私服警官が入っていて、天安門で軍の車両やバスを襲撃し、火をつけたのです。彼らは放火してすぐに逃げ、後に残された市民や学生が大量に逮捕され殺されました。これが中国共産党の常套手段です」
天安門事件当時、鄧小平は天安門での動きが中国全土に広がるのを恐れて弾圧に乗り出した。香港人の民主主義を求める心が中国本土の人々の胸に届けば届くほど、習氏も弾圧と軍介入に傾くだろう。
ここで日本は何をすべきか。天安門事件後、北京政府をまっ先に許したのは日本だった。今回、日本は北京政府に30年前と同じ甘い態度をとってはならない。最も強い非難と警告の声を発する責任があるのは日本政府だ。香港は日本に期待し、台湾も日本を見ている。香港の学生や市民の側に立ち、中国政府に厳しく注文をつけることなしに、価値観外交を唱える資格など無いのである。