「 香港で想定外の大デモ、習近平の窮地 」
『週刊新潮』 2019年6月27日号
日本ルネッサンス 第857回
習近平国家主席の大誤算といってよいであろうが、それも含めて自業自得ではないか。
香港で「逃亡犯条例」改正への反対の声はおさまらないどころか、国際社会が一斉に、香港政府と、背後で実権を握っている北京政府への非難の声を強めている。
逃亡犯条例改正への反対デモは、6月9日の日曜日には主催者発表で103万人、16日には200万人に倍増した。香港住民700万人の29%が街頭に繰り出し、中国本土と一体化した香港政府に抵抗の意思を示した。米欧メディアはデモを生中継で報じ、香港人の人権も自由も危機に瀕していると伝え続ける。
7月1日は香港が英国から中国に返還された記念日である。この日に向けて、デモはさらに拡大する可能性がある。その前に習氏は大阪でのG20に出席しなければならず、そこで国際社会の非難の集中砲火を浴びるだろう。
一連の負の連鎖現象を「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏は「習主席のもらい事故」と表現する。矢板氏の説明だ。
「去年、香港の男が台湾で女性を殺害し、香港に逃げ帰ったのです。台湾当局は犯人引き渡しを要求しました。香港は米英などとは引き渡し条約を結んでいますが、中国や台湾とはそのような取り決めをしておらず、引き渡せなかった。それで香港行政長官の林鄭月娥(りんていげつが)氏は条例改正に取りかかった。習近平や中国共産党の直接の指示ではないのです」
実はこの話には続きがある。殺人犯とされる男性の引き渡しを要求した台湾当局は、今年5月、男性の引き渡しは求めないと方針を転換させたのである。理由は二つ、台湾当局は逃亡犯引き渡し条例が、後述するように中国共産党政府に悪用されると気付いたこと、香港住民の反対の声に耳を傾けたこと、だった。
自由は次々と奪われた
他方、林鄭月娥氏はこの機会を逃そうとはしなかった。彼女は昨年11月、北京を訪れ習氏と長時間の面談を果たしている。その席で習氏は香港により厳しい「法的整備」を求めたという。
彼女がこだわった逃亡犯条例改正案は、容疑者の引き渡し先に「中国、マカオ、台湾」を新たに加えた内容で、改正されれば同条例は間違いなく反中勢力弾圧強化の手段として中国政府に利用されると、香港人は恐れた。
改正案は、引き渡されるのは香港人だけでなく、香港在住の外国人、香港にビジネスや観光で渡航する人まで含んでいた。これには香港を支えてきた国際ビジネス界の重鎮たちも驚いた。
殺人事件をきっかけにした改正案はこのように多方面から反対を受けながらも香港政府によって進められ、国際政治の渦の中で、200万人もの人々を駆り立てるという、予想を越えた反応を生み出した。矢板氏が指摘するように、習氏にとっては「もらい事故」の側面もある。だが、中国政府の年来の弾圧は尋常ならざるものであり、中国共産党の手法は国際法や人類普遍の価値観と余りにも隔たっていて、それらが一連の反応を引き起こしたという意味で、自業自得としか言いようがない。
1997年の香港返還以降、周知のように50年間は一国二制度の下で高度な自治が保障されるはずが、香港の自由は次々と奪われた。2014年、香港人は民主的選挙の実現を雨傘革命で訴えた。彼らの要求は完全に退けられ、いま、香港議会の議員70人の内、中国共産党が事実上指名する議員が半分以上を占める。多数を得た彼らは香港人代表ではなく、中国共産党を代表して香港を監視し、香港社会を中国化するための権力者集団となっている。
彼らは如何なる意味でも中国共産党への批判を受け入れない。中国共産党に批判的な書籍を扱っていた銅鑼湾書店の経営者らが失踪したのは雨傘革命の翌年だった。書店の経営者らは家族にも連絡できず中国当局に拘束されていた。
解放されても、彼らは以前のように自由に書籍を扱って言論、出版の自由を楽しめるわけではない。いつ何時再び、誰にも知られずに拘束され、大陸に連行され、最悪の場合、拷問、虐殺の悲劇に見舞われないとも限らない。現に書店の元店長は逃亡犯条例改正の動きを察知して、4月26日台湾に“亡命“した。
このような一連の事実があるために、香港人は中国共産党の支配強化を恐れ、警戒心を強めるのだ。国際社会が香港人の抱く恐怖心に共感するのも当然だ。国際社会はかつての宗主国である英国を筆頭に、デモの市民たちへの支持を打ち出した。とりわけ強烈に反応したのが米国である。
共和党のマルコ・ルビオ氏ら8人の上院議員に下院議員も加わった10人が連名で、香港を米国の「特別貿易相手国」リストから外す法案を提出する構えだ。
米中対立は「文明の衝突」
現在米国が香港との貿易にかけている関税は、大陸中国とは別扱いである。中国の製品であっても、一旦香港に持ち込んで加工し、「香港製品」にすれば、関税は通常レベルにとどまる。中国製品がそのまま香港経由で米国に輸出される場合は、現在米国がほぼ全ての中国製品に課している25%の関税が適用される。
ルビオ氏らの法案が実現すれば香港には大打撃だ。企業の香港離れが進み、投資も減少するだろう。中国にとっても痛手だが、香港政府の多数派を占める中国系議員にとっては死活問題だ。香港は自由貿易で成り立っており、香港の中国系議員の多くは経済界の幹部だからだ。
矢板氏は、習氏には現在打つ手がなく、「死んだふり」をするしかないと語る。
「去年、中国共産党指導部内では習氏降ろしの動きもあったのですが、たとえ李克強氏に交替してもアメリカの対中姿勢は変わらないと、彼らは悟ったのです。米中対立の構造が変わらないのであれば、指導者を引きずり降ろす意味もない。このような認識が内政も外交も手詰りの習氏の立場を逆に安定させています」
共産党内の権力闘争が米国の「固い意思」の前で暫時休止しているというのである。米中対立はいまや「文明の衝突」にもたとえられる。米国の要求は中国がルールを守るフェアな国になることだ。知的財産も情報も先端技術も盗んではならず、少数民族を弾圧してはならず、人権を尊重せよという当然の要求だ。だが米国の要求を容れれば中国共産党の一党支配体制は崩壊する。
米中の戦いで、わが国は日本の依って立つ価値観をもっと鮮明にしなければならない。価値観外交を標榜してきた安倍政権は、いま、最低限、香港の人々のデモに明確な支持を表明すべきだ。さらにウイグル人への弾圧にも、台湾に対する圧力にも、日本ははっきりと反対の姿勢を打ち出し、中国に物申すのがよい。