「 国民が参加する裁判員制度が始まって10年 今後も欠点は修正しつつ成熟することを願う 」
『週刊ダイヤモンド』 2019年6月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1281
国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まって5月で10年、感慨深いものがある。
5月21日の紙面で「読売新聞」が特集したが、その中の全国50の地方裁判所所長へのアンケート調査では、全員が「裁判員裁判は刑事裁判に良い影響をもたらした」と回答している。
「日本経済新聞」がやはり同日の紙面で報じた最高裁判所の調査では、裁判員経験者の96%が裁判への参加を「良い経験だった」と評価している。
10年間で裁判員や補充裁判員を務めた人は9万人を超すが、最高裁刑事局長の安東章氏は「一人ひとりが真摯に裁判に向き合ってくれた」と感謝した。皆真面目に責任を果たしてきたのである。
裁判員制度を導入すべきか否かが論争されていた10年以上前、裁判官という裁判官は導入に反対だった。司法は変わらなければならない、もっと司法を国民の側に近づけなければならないと考えていた人々の側にも迷いがあった。法律の知識もないいわば素人に、刑事裁判で被告を裁く資格があるのだろうかという懸念である。その思いは私も共有していた。
このような思いは大多数の真面目な日本国民の、人を裁くということに対する人間としての責任感の裏返しであり、自らの能力の限界を認識した謙虚さの反映でもあったのではないか。
当時の司法の現実は厳しかった。裁判にはどう見てもおかしなことがあった。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)や『激突! 裁判員制度』(WAC)などの著者である門田隆将(かどたりゅうしょう)氏は、山口県光市の「母子殺害事件」の被害者、本村洋氏の思いを広く伝え、司法改革の重要性を訴えた。
本村氏は1999年4月に、当時18歳だった犯人に、妻と幼い娘を絞殺された。愛する家族の命を無残に奪った犯人に、本村氏は極刑を望んだ。しかし、山口地裁も広島高等裁判所も、犯人には「更生の可能性がないとはいえない」として、死刑を回避した。
それは典型的な判例主義に他ならない。私は本村氏に複数回お会いし、数時間話を聞いたが、氏は、「裁判官は相場主義に基づいて判決を下している。それでは審理など必要ない」と厳しく批判した。
また、広島高裁判決後の記者会見では「古い判例に裁判所がいつまでもしがみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れていくのが司法の役割だ」と語っている。この思いはやがて最高裁を動かし、判例主義を超えた死刑判決が言い渡された(門田隆将(かどたりゅうしょう)著『なぜ君は絶望と闘えたのか』新潮社)。
私にとって弁護士の岡村勲氏との出会いも非常に大切なものだった。氏は代理人を務めていた山一證券に関する事案で男に逆恨みされ、妻を殺害された。自身が被害者になって初めて、いかに犯罪被害者が無視されていたかに気づき、日本で初めて「犯罪被害者の会」を立ち上げ、司法改革の先頭に立った。
司法は多くの面で改革を必要としていたのである。重要なことは、犯罪は法律だけで裁いてはならないということだ。それは法を無視せよということではまったくない。むしろ、真の意味で法の精神を尊重せよということだ。法の執行に、人間の良識を反映させよということである。裁判員制度が生まれ、法律の素人が裁判に参加し、自身の能力の限りを尽くし、良識に従って誠実に、裁判員としての責任を果たした。その歩みが10年の歳月を刻んだ。すばらしいことだ。
読売新聞のアンケートには、裁判の在り方が変わり「分かり易くなった」「判決の説得力が増した」などの指摘がある。
国民参加の司法が法と正義に基づいて成熟していくために、裁判員制度を支える社会の基盤を広げたい。