「 虐待死なくすために全件情報共有を 」
『週刊新潮』 2018年8月2日号
日本ルネッサンス 第813回
東京都目黒区で5歳の船戸結愛ちゃんが両親から虐待を受けて死亡したのは3月2日だった。結愛ちゃんは1月23日に、父親の船戸雄大容疑者(33歳)と母親の優里容疑者(25歳)に連れられ、香川県善通寺市から目黒区に転居した。
それからひと月と1週間、結愛ちゃんは、「もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」と書き残して死亡した。
安倍晋三首相は7月20日の関係閣僚会議で「幼い命が奪われる痛ましい出来事を繰り返してはならない。やれることはすべてやるという強い決意で取り組んでほしい」と指示し、政府は児童虐待防止に向けて緊急対策を打ち出した。その柱が来年度から4年かけて児童福祉司の数を約2000人増やし、全国で5000人強まで、児童相談所(児相)の体制を強化することだ。
これはこれで歓迎すべきことだが、肝心のことができていない。実は私は7月6日の「言論テレビ」で、政府の決断を前にして特別番組「私たちは結愛ちゃんの命を救える国になる」を放送した。集った論客は作家の門田隆将氏、「NPO法人シンクキッズ─子ども虐待・性犯罪をなくす会」代表理事の後藤啓二氏らである。議論のキーワードは「全件情報共有」だった。
児童虐待情報は、基本的に各地の児童相談所や警察に寄せられる。児童相談所と警察が、虐待が疑われるすべての事案について、互いの情報を共有するのが全件情報共有だ。
幼い子供の命を守るのは社会と国全体の責任だという考え方に基づいて、このような制度は他の先進国では当然、整えられている。だが、日本では警察と児相(厚生労働省の指針にそって運営)がタテ割り構造から脱け出せず情報共有ができていない。一般論だが、警察から児相への情報提供が比較的行われている一方で、その逆は殆んどなされていない。
主治医の警告
門田氏が厳しく指摘した。
「児相と警察はその成り立ちからして組織の特質、DNAが違います。児相の人はこの番組を見て怒るかもしれないけれど、児相にとって(結愛ちゃん事件は)普通のことです。警察は命を守る組織です。結愛ちゃんの命を守ろうとする遺伝子を持っているのが警察です。児相は親子関係、或いは家庭の在り方を修復するという遺伝子を持つ組織です。だから自分たちの手元の情報を警察に通告して、子供の命を守ろうという発想が元々ないのです」
こんなことを言われれば、門田氏も断ったように児相の人たちは立腹するだろう。しかし、言論テレビの番組から1週間後、新しい情報がもたらされた。結愛ちゃんがまだ香川県にいたとき、虐待された結愛ちゃんを診察した主治医が傷の状態に強い危機感を抱き、転居先の児相に電話をかけていたのだ。
結愛ちゃんは香川県の児相に2度保護された。診察をした主治医は「虐待以外では考えにくい命に関わる傷を確認」し、香川県の児相にも、転居後には品川児相にも連絡したのである。「日本経済新聞」の7月16日付朝刊によると、品川児相がこの医師から連絡を受けたのは、後述する2月20日の入学説明会の直後だった。
ここは時系列で見ることが大事である。先述のように結愛ちゃんは1月23日に目黒区に転居した。29日に香川県の児相は品川児相に口頭で結愛ちゃんの状況を説明した。2月9日には、品川児相が結愛ちゃんの様子を見に家庭訪問したが、母親が結愛ちゃんは不在だと言い張り、児相はそのまま引き下がった。
そして20日、結愛ちゃんは小学校の入学説明会に欠席し、母親だけが出席した。私はこの件について4月に品川児相所長に就任したという林直樹氏に尋ねた。氏はこう答えた。「結愛ちゃんが欠席したことは、私どもも関係機関から情報を入手して知っていました」。
香川県の主治医が心配して、品川児相に結愛ちゃんの状況を説明したのはその直後だったわけだ。事情を最もよく知り得るこの主治医の警告に、児童を守るという視点で危機感は抱かなかったのかと問うと、林氏は「回答できない」と答えた。だが、2月9日の家庭訪問の目的はまず新しく引っ越してきた両親と支援関係を打ち立てるためで、必ずしも結愛ちゃんの状況をチェックすることが最優先ではなかったとも語った。門田氏の「遺伝子」論そのものだ。
4月に所長に就任した氏に、それ以前の件について尋ねるのは酷かもしれない。ただ事実関係を見れば品川児相は主治医の電話を「あくまでも『情報提供』として受け止めたため、具体的な対応につながらなかった」(前出「日経新聞」)。そして10日後に結愛ちゃんは死亡したのである。
政府が児相の人員を新たに2000人増やす計画について尋ねると、林氏は人員増加によって「子供の置かれている家庭状況を評価し、何をなすべきか判断する力などを身につけ各々の専門性を高めていくことができる」と評価した。
「完全な敗北」
実はこの点は、言論テレビで大いに議論された論点のひとつだった。門田氏が強い調子で語ったものだ。
「児相は自分たちの専門性を高める、そのために要員増には大賛成と言うでしょう。組織の権限も拡大します。しかし、それでは対応できないところまで日本社会はきています。警察と手を携えなければ子供の命は守れないでしょう」
児相の物理的能力を見ても子供の命を彼らに任せておくのは不安である。児童福祉司は全国で現在3000人強。品川児相の場合、児童相談員は、林氏によると25人だ。同児相がカバーするのは品川区(39万人)、目黒区(28万人)、大田区(73万人)で約140万人。25人でどうやって見守れるのか。後藤氏が指摘した。
「隠れているケースも含めれば毎日一人の子供が虐待死させられています。この苛酷な現実の前で児相の専門性もなにもないでしょう。完全な敗北です。警察は全国に30万人、交番のお巡りさんは10万人です。彼らに、子供さんは元気ですかと声をかけてもらうだけで事情はかわります」
だが、庶民の情報を警察に渡すのは人権侵害だと論難する声もある。そこはすべての情報を渡すわけではない。すでに高知県や愛知県では全件情報共有がうまくいっている。埼玉県も8月1日から全件共有に踏み切る。上田清司知事が語った。
「児相と警察が情報を全件共有し、きちんと情報を守っていけるソフトを作りました。菅官房長官は、地方自治体でやれるところからやってほしいと言っています。政府も本来、早く省庁の壁を破りたいのです」
人権の極致は命を守ることだ。安倍首相はやれることはすべてやれと指示済みだ。一日も早く、厚労省の厚い壁を破り、全件情報共有への道を開いてほしい。