「 失敗に学び克服せよ、日本外交 」
『週刊新潮』 '07年9月13日号
日本ルネッサンス 第279回
日本の政治の混迷をあざ笑うかのように、日本を取り巻く環境は厳しさを増している。激しく変わるアジア情勢に、日本はどう対処すべきか。
暫く前の『中央公論』8月号に外交ジャーナリストの松尾文夫氏が「拉致敗戦」と題した衝撃的な論文を寄せた。昨年10月にブッシュ大統領が金正日総書記に「北朝鮮が核を捨てたら、米国は平和条約に調印する」「協議は早期に始めることができる」などと伝えたとの内容だ。
これは米国社会科学調査評議会のレオン・V・シーガル氏による推測の形で報じられた。北朝鮮へのメッセージは、キッシンジャー元国務長官が10月、北京を訪れ、10日に胡錦涛国家主席に伝え、それを中国が北朝鮮に伝えたとされる。米国の新政策では日本が拉致問題を追及することは歓迎されず、却って「致命的な孤立」に追い込まれるというものだ。
拉致問題が解決されない限り、北朝鮮をテロ支援国家の指定から外さないという従来の米国外交が180度転換したのだ。この大転換を米国は事前に中国には伝えたが、日本には伝えていなかったわけだ。
『中央公論』の松尾論文からひと月後の8月10日、今度は『産経新聞』中国総局長の伊藤正氏が、昨年10月末に金総書記がブッシュ大統領に「韓国以上に親密な米国のパートナーになる」とメッセージを送っていたと報じた。二つの報道を整理すると、安倍首相は昨年10月8日に中国を訪れ、9日には北朝鮮が核実験を行い、翌日にキッシンジャー氏が胡主席に会い、その後、金総書記がブッシュ大統領にメッセージを送ったことになる。
以来、米朝間で多くのことが進んだ。1月にはベルリンで2国間協議が行われ、バンコ・デルタ・アジア(BDA)の北朝鮮資金凍結問題解決への動きが具体化した。2月には北京の6か国協議で米朝両国の完全な外交関係の樹立とテロ支援国家指定解除の可能性が示唆された。3月には金桂冠北朝鮮首席代表が訪米し、6月にはヒル米首席代表が訪朝した。7月には国際原子力機関(IAEA)の監視作業が着手され、重油95万トン分のエネルギー支援が決定された。そして9月3日、ジュネーブでの6か国協議を受けて、北朝鮮は「米国がテロ支援国家の指定を解除する」と述べた。米国は一応否定したが、米朝関係の緊密化は余りにも明白だ。
またも後手に回った日本
シーガル氏は米国の政策転換は゛中国との協力路線を維持し、対中政策が危機に陥らないための選択〟であり、イラクでの行き詰まりが理由ではないと解説する。だが、中国にとって北朝鮮は常に外交カードであってきた。そのカードが米国の手に移るのを、中国が歓迎するはずはない。米国の新政策は、中国重視より、明らかに中東で余裕を失った米国自身のためであろう。
中国が、アジアにおける米国の影響力を減退させるために日本との関係緊密化に乗り出したのは、国際政治における定石ともいえる。日米分断が日中の戦略的互恵関係の構築に込められた中国の意図であろう。
こうしてみると、日本外交における二重三重の読み違いが見えてくる。第一は、米国の意図を読みきれなかったことだ。米国共和党の底流にある超現実主義は、眼前の目的のためには敵と手を結ぶことを繰り返してきた。同盟国日本への通知なしで、中華人民共和国と手を結んだ1979年のニクソン・ショックはもとより、今回の、拉致を棚上げにして米朝接近を進めるライス国務長官らの動きも同様だ。米国の超現実志向を日本外交は今回も追い切れなかったことになる。
第二は、幅広い視点を欠落させたために、中国外交でまたもや日本の主張を展開し得なかったことだ。
中国が日本との関係修復に動いた理由のひとつは、一連の反日運動による日本人の中国離れで、資本及び技術の中国流入の勢いが落ちたためだ。関係修復によって、日本からとれるものを最大限とることで中国経済を支える必要が、中国側にはあった。もう一点は、先述した米国の政策転換に伴う、アジアの政治力学の変化に対応する必要性である。米国が北朝鮮への影響力を強めることは、中国とロシアのあいだにポツンと存在するモンゴルに、米国の影響が及ぶことと同様、中国にとってこの上なく嫌なことであろう。
中国の実利追求とアジアにおける米国との覇権競争ゆえに、中国は日米分断による米国の力の減退効果を狙って日本に接近したのだ。その中国に対し、日本政府は、広く国際情勢を見据える視点を欠き、日中2国間関係だけへの目配りで対処してきた。日本接近にかける中国の切実かつ切迫した状況を認識せず、主張なき譲歩をしたために、日本の国益を守ることが出来なかったのだ。
゛歴史カード″封印に失敗
一例が、中国が長年対日カードとして政治的に利用してきた歴史カードだ。中国にとって靖国神社問題は政治的切り札にすぎない。だからこそ、日本に接近したい現在、中国は歴史問題についての批判を徹底的に控えるのだ。つまり、中国の手から歴史カードを払いおとし、永遠に封印する好機がいまなのだ。そのために首相は靖国神社に堂々と参拝すべきだった。しかし、首相はその点を曖昧にしたまま訪中し、現在も曖昧なままだ。
安倍首相の曖昧路線は今年の8月15日の閣僚による靖国神社参拝にも反映された。ひとりを除いて、全閣僚が参拝しなかったのは首相の意向を敏感に感じとってのことであろう。日本はまたもや歴史問題という政治問題で中国に敗れ、歴史カード無効化に失敗した。
米国の方針転換は日本外交にとっての危機である。だが危機を逆手にとって論陣を張らなければ、国益など端から守り得ない。国益を忘れた政治から、日本のためになる外交など生まれはしない。
北朝鮮問題で米国は、さらに拉致問題を相対的に矮小化していくだろう。中国はさらなる微笑外交で日本取り込み戦略を展開するだろう。
日本はどちらにも屈することなく、主張し続けなければならない。拉致問題の解決は国際社会の正義であると。国民の生命を守るという根本を踏み外せば、その国はもはや国家たり得ない。拉致問題の解決を要求する日本の主張は、日本が本気で主張する限り、米国をはじめどの国も否定出来ない価値観なのだ。
一方で、日本は今こそ、力を蓄え、日本の力を発揮する道を切り拓かなければならない。それは安倍首相の唱えてきた憲法改正であり、小沢一郎氏もかつて唱えた゛普通の国″になることだ。国際社会での一時的な孤立は、日本が理性的である限り、日本を滅ぼすことにはなり得ない。反対に、理性を忘れて情緒に走り、孤立を恐れ妥協することこそが、日本国の滅びの始まりになるのである。