「 周辺危機、日本はどう対処するか 」
『週刊新潮』 '06年10月26日号
日本ルネッサンス 第236回
いきなりではあるが、次の文章を読んでほしい。
「歴史的に見て、一つの敗戦国を永遠に正常な国家の状態に回復させないようにすることは不可能なことである。『日本が正常な国家の軍備状況に戻ろうとする軍事的な要求と、軍国主義の道を再度復活させることとを、はっきり区別して対応する』これこそが現代における新しい思考であろう」
これは03年3月号の『文藝春秋』に、中国共産党機関紙『人民日報』の論説部主任編集の馬立誠氏が引用した文章だ。事実上、中国共産党の考えを表明する立場の人物が、日本が「正常な国家の軍備状況に戻ろうとする」、その「軍事的な要求」は当然の要求だと肯定したのだ。
右の論文は胡錦濤国家主席の誕生時に発表された。つまり、馬論文は胡政権の考え方を反映したものだ。胡主席は対日強硬派の江沢民前国家主席を排除し、いま路線を変更しつつある。発表後、一度は葬り去られた馬論文に、近い将来、再び光りがあてられる可能性もあり得る。
一方、軍事力や安全保障について日本ではどんな議論が展開されているか。10月9日に北朝鮮の核実験が発表されて以来、安倍晋三首相は次々と対策を打ち出した。11日には日本単独の追加制裁措置を決定、即発動した。国連憲章第7章に基づく国連安保理の制裁決議は15日(日本時間)。日本の強い措置は、7月の北朝鮮によるミサイル連射時と同様、またもや国連決議に先行した。
ここまでの日本外交は米国との緊密な連携で極めて効果的に展開されており、評価すべきだ。が、この先、北朝鮮に発生しかねない状況を考えると、懸念すべきこともある。
米国による金融制裁や日本独自の制裁は想像以上の効果を発揮し、金正日総書記を窮地に追い込んだ。金総書記の手元には、現金も電化製品も食糧もなく、もはや配下の軍人達を養う力を失いつつある。金正日と軍部の間に隙間が生じ、やがてそれは拡大されていくはずだ。
蚊帳の外に置かれる日本
この先に待ち受けるのは両者の離間である。ルーマニアの二の舞もあり得ないとはいえない。いずれの形か、金総書記が倒され、現政権が終焉を迎えるとき、大混乱が始まる。
だが、周辺諸国は難民を歓迎しない。韓国の政治家でさえ、与野党を問わず“北の同胞”に韓国に来て欲しいとは言わない。彼らは、北朝鮮がもっと経済的に成長した暁に、はじめて統一すべきだという。つまり北朝鮮崩壊に伴う難民の大量流入は、彼らが最も避けたい事態なのだ。
そこで周辺諸国は、混乱を外へ波及させないためにも、北朝鮮の国民を国内にとどめたうえで治安を保とうとするだろう。そのために周辺各国が軍を送り込む可能性は高い。といっても、それは米中露韓の4か国であり、日本はその中には入れないであろうし、入らないであろう。
入れない理由のひとつが36年間に及ぶ朝鮮半島への植民地支配である。だが、朝鮮半島で日本よりもっと苛酷な侵略を繰り返したのが中国だ。例えば、前漢時代の紀元前108年、朝鮮王朝を倒して植民地とした。元の時代には少なくとも200回侵略した。現在も中国政府は北朝鮮の国民への弾圧には関心がない。逆に金総書記を水面下で支え、彼が中国に国土を切り売りするのを歓迎し、北朝鮮の経済的植民地化を進めてきた。まさに冷酷非情の政策だ。
米国も朝鮮戦争で北朝鮮と戦った。
それでも嫌われるのは日本だ。日本政府、とりわけ外務省が対外情報発信にほぼ無力であることに加えて、経済力だけの日本は、叩き易いのだ。
一方で、日本の憲法と法律は、北朝鮮国内の混乱防止のためであっても、自衛隊の朝鮮半島派遣を許さない。では北朝鮮の大混乱や有事の際、日本は何をなし得るのか。このままではまたもやキャッシュディスペンサーの役割を振られるのである。
そして現金に物を言わせるこの方法は、実は、多くの日本人が心の奥底で軍事力行使よりもよいとして受け入れているものではないだろうか。
たとえば、中川昭一自民党政調会長が15日、「(日本に)核があることで攻められる可能性は低いという論理はあり得るわけだから、議論はあっていい」と語ったことに驚くほどの反対論が噴き出したのが一例だ。
野党だけではなく、自民党の山崎拓氏も「ゆゆしき問題」といい、久間章生防衛庁長官は「議論自体が他国に間違ったメッセージを出す」と、的外れの非難をした。
中川氏の問題提起は間違っていない。安全保障を論ずるのに、核をめぐる議論を封じ込めてしまえば、議論そのものが成立しない。憲法改正の議論自体が危険で悪であるとして、一切の憲法論議を封じ込めてきた時代に戻ろうというのか。
真の品格ある国家とは
日本周辺には中国、ロシア、北朝鮮、インドという核保有国がひしめいている。まして、北朝鮮の核は日本を狙ったものだ。こうした状況下、核保有の長所、短所、自国の安全への影響を、戦略論として論じない国など、日本以外存在するのか。
にもかかわらず、中川発言は一斉に反発を食らった。反発の論は、北朝鮮が核実験で暴走し日本が実際に制裁を科す場面になったとき、日本の独自制裁の先行を戒め、日本の“強硬策”こそが北朝鮮の暴走を招くと“忠告”した論と同質だ。『朝日』の「天声人語」は12日に北朝鮮問題の危機には“人類益”で対処せよと書いた。このわかりにくい主張も、制裁先行に警鐘を鳴らす意見も、底流でつながっている。どんな状況でも、日本が軍事的行動を許容せず、そのことについて論ずることさえ忌避する考えである。
これらの論の行きつく先は、カネによって全てを片づける国の姿でしかない。それは独立国とも、品格ある国家ともいえない、誇りなき姿である。
クリントン大統領の補佐官だったブレジンスキーは、日本を米国の被保護国と呼ぶ。中国は「台湾も吸収して」「一級の世界大国としての地位を築」く国だと定義する一方で、日本がアジアの大国になることは「不可能」で、日本はひたすら経済成長に力を注ぎ、その経済力を国際社会に寄附し使ってもらう存在になるべきだと説く(『ブレジンスキーの世界はこう動く』日本経済新聞社)。
果たして、そんな国に私たちはなりたいのか。ノーである。先の馬氏のように、中国共産党にさえ、日本がまともな国になろうとするのは当然とする見方がある。北朝鮮の核によって眼前に突きつけられた危機をきっかけに、日本人はこの国を真っ当な国にするにはどうしたらよいか、まともな軍事戦略はどう構築したらよいかを論ずるべきだ。心ある日本人は核保有を含めた理性的な戦略論を避けてはならない。当面の逼迫する問題として、集団的自衛権をも前向きに論じなければならないのだ。