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2013.10.10 (木)

「 混沌たる世界、戦略は聖徳太子に学べ 」

『週刊新潮』 2013年10月10日号
日本ルネッサンス 第577回

雑誌『正論』創刊40周年記念の11月号が面白い。とりわけ目を惹いたのが長部日出雄氏の新連載、「私が愛した日本人」である。第1回で氏は聖徳太子を取り上げたが、氏の太子論に私は全面的な共感を覚える。

国際政治における米国の影響力が低下し、米国が要となって維持してきた国際秩序が揺らぎ、世界は混沌に向かいつつある。そのような時代だからこそ、いま太子の叡智と戦略的思考に学びたい。

重要なのは国の実力である。力があってはじめて自国を守り通せる。他国にも貢献し影響を及ぼし得る。だが、実力や真の力はどこから生まれてくるのか。自分を信じ己の長所を識ることなしには、真価を発揮することなど出来ない。

ところが大東亜戦争に敗れた後の日本は、呆けたかのように自らを見詰めることもなく過ごしてきた。占領下、米国に指導されて「民主主義の国」となり「再出発」したと、教えられた。その間に日本人は本当に祖国の歴史を知らない民族になった。思慮深く穏やかな日本の文明を知らずに過ごすほど勿体ないことはないだろうに、と口惜しく思う。

安倍晋三首相は9月26日に国連総会で「積極的平和主義」を掲げ、「自らの力を強くしつつ、世界史的課題に骨惜しみせずに取り組む」と誓った。国連安保理の現状が「70年前の現実」のまま凍結され今日に至っているのは遺憾だとし、国連改革を断行し日本が常任理事国になる意欲を持ち続けていると宣言した。

日本が世界で重要な役割を果たすことが必ずよりよき世界の形成につながると明言したのだ。その心を強調すれば、日本こそ21世紀のモデル国家たり得るということではないか。首相のその心意気が非常に大事である。

日本が世界に示し得る価値観は7世紀の聖徳太子の時代に遡れば明確であろう。太子の外交と治政を知ることで日本の真髄も感じとれる。歴史を辿れば、十七条の憲法で目指した価値観が約1260年後の明治政府樹立時に、五箇条の御誓文として蘇ったことにも気づくだろう。

「和」と「倭」

十七条の憲法と五箇条の御誓文の精神がピタリと重なることは、十七条の憲法に込められた価値観が約1260年間、日本国統治の基本となっていたことを示している。その価値観は、明治維新から78年後の昭和21(1946)年1月1日に、三度、鮮やかに登場する。連合国軍総司令部(GHQ)の占領下、厳しい検閲制度ゆえに自由な発言が許されなかった状況の下、昭和天皇が新年の御詔勅の冒頭、五箇条の御誓文全文を読み上げられたのだ。

昭和天皇は後に、昭和21年の御詔勅で五箇条の御誓文全文を読み上げられた理由として、日本のよき価値観はすべて外国から与えられたように国民は思い始めているが、明治天皇の五箇条の御誓文にみられるように、民主主義などの善き価値観は古来日本人本来のものであったと国民に伝えたかったと仰っている。

具体的に見てみよう。たとえば、十七条の憲法の第1条は有名な「和を以て貴しと為す」である。長部氏は「和」を「ヤハラカ」「ヤハラカナル」「アマナヒ」などの訓読でなく、「ワ」と音読した場合の意味について興味深い論を展開する。

音読すれば第1条は「倭を以て貴しと為す」の意味にもとれる。現代では「倭」は「背が低いこと」から発して中国人が日本人に用いる「小日本」に通ずる蔑称とされている。だが当時の知識層は「和」と「倭」の両方の意味を正確に捉えていたはずだと、長部氏はいう。

白川静氏の『字統』には、倭は「稲魂を被って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう」と解説されているが、太子は倭を和に変えることで国民に誇りを持たせようとしたと長部氏は見るのだ。

加えて太子はこの時点で、日本を豪族たちが争う地から、争いを超えた国家に昇華させたとも、氏は強調する。かつて蘇我、物部の二大豪族の対立を軸に争っていたわが国の「人皆党有り」(人は皆、党派をつくって争っている)の状態から、「党」の上に「倭国」があること、それは「和」を貴ぶ国家であるというのだ。

太子が描いた理想の国の姿は、当時の官僚、即ち、人の上に立ち政治を司る人々に向けた心得として書いた十七条の憲法に明らかである。和を重んじ、普遍的価値観としての仏の教えを尊び、日本古来の神道の神々を敬い、賄賂や讒言を退け、争い事にはあくまでも公正なる裁きをもってし、人の上に立つ人ほど早朝から夜遅くまで力を尽して働くように戒めている。ここに描かれているのは道義大国の姿であり、それは国民を大事にする寛容かつ穏やかな国柄である。

戦いの常道を見切っていた

明治元年、新政府樹立直後に発布された五箇条の御誓文も驚くほど開明的、民主主義的、かつ寛容である。1条の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」も次の「上下心を一にして、盛に経綸(統治)を行ふべし」も国民一人一人が身分、職業の如何にかかわらず、国のあるべき形について論じ合い、叡智を結集せよと言っている。

日本が古来より実践してきたこうした価値観に加えて、現代の私たちは聖徳太子が当時の大国・隋と如何に戦略的にわたり合ったかについても学ぶべきであろう。

隋の第2代皇帝煬帝の下へ太子が遣隋使、小野妹子を送り込んだのは、煬帝が高句麗に攻め込む5年前だ。隋の力が四方に及んでいた時期に、太子はあの有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言で日本と隋の対等性を明記した国書を送った。冒険主義が過ぎれば国益を損ね兼ねず、かといって、日本国の立場を打ち出さなければ他の周辺諸国同様、属国にされ兼ねない。その難しい局面で太子が送った国書の前半部分に注目すべきだと長部氏は指摘する。

太子は、前半で煬帝を「海西の菩薩天子」と最大級の賛辞で呼び、仏法の繁栄に尽くした功績を尊び、僧数十人を派遣して学ばせたいと書いて敬意を表している。その後に日本と隋は対等であるとの明確なメッセージを墨痕鮮やかに書き送ったのである。

この堂々たる主張の背景に、煬帝が対高句麗戦争の準備中で、隋から見て敵の背後の日本国を味方にすることこそ戦いの常道であると見切っていたことがあるだろう。隋はどうしても日本を敵にすることは出来ないとの分析に辿り着いたからこそ堂々たる外交が成り立ったといえる。

いま、日米共に、膨張する中国に直面する時代となった。日本の戦略は米国と価値観を共有し、中国への外交儀礼を守りながらも、日本国の堂々たる主張を展開することだ。

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