「 国会議員が初めて法王を迎える 」
『週刊新潮』 2012年11月15日号
日本ルネッサンス 第534回
「日本の政治家として、ここはきちんとやろう」
長年チベット問題に関わってきた民主党の牧野聖修氏が発言すると、自民党の下村博文氏が応えた。
「チベット仏教を守り通して世界の尊敬を集めている法王を、堂々とお迎えするのが真っ当な国としての作法だ。私たちは今年4月にロブサン・センゲ首相を91名の議員でお迎えしたが、それ以上にしっかりした態勢で法王をお迎えしたい」
これは10月末、自民・民主の有志が内々に開いたダライ・ラマ法王14世をお迎えするための準備委員会での会話である。私は議員ではないが、チベット問題に関わってきた立場から参加した。そこに集まった議員の多くが3月末からチベット亡命政府のロブサン・センゲ首相を迎えた時に尽力した人々だった。
準備委員会ではチベット仏教の指導者でノーベル平和賞受賞者の法王を、少なくとも100名の超党派国会議員団が迎え議員会館の国際会議室で講話を聴くこと、演題は、「普遍的責任と人間の価値」とし、法王との意見交換の時間も設けることなどが確認された。
ちなみに、同会議室はチベット亡命政府のセンゲ首相を招いて「チベットの実情を聞く会」を開いたのと同じ記念すべき会場である。
4月のときは、東京の中国大使の妨害があった。センゲ首相と会わないようにとの警告に日本の議員が耳を貸さないと見た中国側は、次にセンゲ首相との対話の場となる会議室を使わせないよう、会場の使用許可権を握る当時の衆議院議院運営委員長、民主党の小平忠正氏に談判したのだ。勿論、小平氏は断った。
それにしても会場使用に関する日本の国会施設運営の細則まで突きとめた中国政府の調査能力は天晴れだ。しかし、日本が自由と民主主義の国であることを忘れた愚かな要請こそ中国共産党の限界を示すものだ。
死の形をとった究極の抗議
センゲ首相を囲む国会議員の会から約ひと月後、今度は世界ウイグル会議議長のラビア・カーディル氏が来日した。すると、カーディル氏来日を阻止しようとして、東京の中国大使、程永華氏の名前で多くの議員に、一連の行動を慎むよう要求する手紙が届いたのである。
手紙の中で程大使はカーディル氏のみならず法王も「ダライ」と呼び捨てにし、「宗教を隠れ蓑にして、長年、中国の分裂を企み、チベット社会の安定と民族の団結を破壊しようとする政治亡命者であり、『チベット独立』を企む政治グループの総頭目」だと、悪態の限りを投げつけた。
程大使の誹謗は間違っている。法王は独立を求めておらず、チベットが中国憲法の枠内に存在することを受け入れている。求めているのはただひとつ、チベット人がチベット人として存在し続けることだ。
チベット仏教に帰依し、チベット語を話し、チベットの伝統的な暮し方をし、子供たちをチベット人として育てることを認めてほしいというものだ。チベットの自然環境を保護し、天然資源、経済発展、公衆衛生などの分野でチベット人の自治を求めるのは中国の資源略奪があまりに酷く、環境破壊が深刻だからであろう。治安、移住、外国との交流などについてチベット人の意思の尊重を求めたのは、中国共産党がチベットを封鎖状態に置いてチベット人を弾圧する現状を憂えたものであろう。
自治を求める法王の声は当然で、自治の下、法王以下全員が中国の憲法を守ると、過去数十年間、法王は中国側に伝え続けてきた。法王を「独立を企む総頭目」と非難する中国は真に常軌を逸している。
今年5月24日に米国政府はチベット人権問題について年次報告書を発表し、チベット人の厳しい現状の背景として中国政府による弾圧を詳しく描写した。中国共産党による愛国教育や法王批判の強要、治安部隊による寺院占拠などの抑圧的政策を元凶と断ずる報告だった。
現にチベットでは今年10月4日にもチベット人作家が焼身自殺を遂げ、6日には27歳の男性も焼身自殺した。中国の弾圧への悲惨な死の形をとった究極の抗議が続いているのである。
法王は昨年8月に一切の政治的権限を、選挙で選ばれた若き首相ロブサン・センゲ氏に委譲した。政治から手を引いたチベット仏教の最高指導者と日本の議員団との対話に問題があろうはずもない。もっと言えば、たとえ法王が政治から引退していなくても、日本の政治家が法王に会ってはならない理由はないのである。むしろ、自由と民主主義の国として、日本国政府が法王を官邸に招き、或いは天皇陛下にお会いする機会を作ってこなかったことのほうが問題なのである。
中国の要求になど屈しない
法王は1959年以来、半世紀以上の厳しい亡命生活の中でチベット人の心の支えとなり続けて今日に至る。人間本来の生き方、在り方について、仏教徒として、また良識の人として、広く国際社会に範を示してきた。仏教の最も崇高な理想として、生きとし生けるものへの思いやりの心を育み、彼らの幸せのために出来るだけの努力をすることを説き続けてきた。法王として「正しい世界観」を体得するために、進化論、相対性理論、量子力学などを学び、科学的思考をもって仏教徒としての自らの人間への洞察を深め、人間への理解を深めてきた。だからこそ、世界の指導者はこぞって法王に礼を尽し、対話を求めてきた。
中国の強い反発にも拘らず、米国ではオバマ大統領がホワイトハウスに法王を招いた。フランスのサルコジ大統領(当時)はポーランドで法王に面会した。今年5月にはイギリスのキャメロン首相とクレッグ副首相が揃ってセント・ポール大聖堂で法王を迎えた。
中国の激しい非難や反発をうけながらも各国首脳は「法王との会話で中国との関係が損なわれることは望んでいない」とサラッと応えている。だが、実情は「サラッと」という表現とは程遠い。中国は各種交流を中止したり、時にはその国の商品のボイコットに走ることもあるからだ。しかし、どの国の首脳も人間の自由、信教の自由、人権、人道、国際法などの価値観を守ることの大切さを認識しているために、中国の要求になど屈しない。
法王をお招きする超党派議員団の世話人を務める下村氏が語る。
「中国政府が反発するとしたら、それ自体、私たち日本人の価値観に合わないことです。日本政府が政府として法王をお迎えすることもいつかあるでしょう。それまでは、国会議員の私たちが礼を尽してお迎えしたいということです」
日本人として、また政治家としての熱い心と気概を示す言葉である。私は11月13日、超党派の議員らと法王の対話を楽しみにしている。