「 対ロ外交、飛んで火に入る野田政権 」
『週刊新潮』 2012年9月20日号
日本ルネッサンス 第526回
オバマ米国大統領はウラジオストクで開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)を欠席した。ロシアのプーチン大統領が5月、米国での主要国首脳会議(G8)を欠席したことへの反応と見られている。
野田佳彦首相も9月8日からのAPECを抗議をこめて欠席すべしという意見があった。メドベージェフ首相を筆頭にロシア政府の閣僚たちが北方領土に不法上陸を続けたからだ。しかし、野田首相は出席した。
そこでわが国首相はどんな接遇を受けたか。日露首脳会談の前に突然、ロシアがマレーシア及びタイ首脳との会談を入れたために、野田首相は50分間も待たされた。それでも首相はプーチン大統領に笑顔を向け、日露間の問題解決のためとして「静かで建設的な環境」での議論を求めた。ロシアの世界貿易機関への加盟を歓迎して、「(極東シベリア開発は)相互信頼が進めば協力が現実のものとなる」と語り、会談後にはプーチン大統領と共に、日本企業とロシア国営のガスプロムが共同で建設する液化天然ガス(LNG)工場の覚書の署名に立ち会った。
なんとも興醒めな外交である。「静かで建設的な環境」を求めるのはよいが、それを実現するのにどれほど熱い国家意思と強い力が必要であるかを、首相は理解していないのではないか。
新潟県立大学の袴田茂樹教授は、北方領土に関する日本の抗議を、ロシア側は「日本国内向けの儀式」と見ていると指摘する。日本の抗議には何の迫真性もないからだ。
たとえば、メドベージェフ氏は大統領時代の10年11月、国後島に不法上陸した。このとき菅直人政権は河野雅治大使を呼び戻したが、実質3日でモスクワに戻し、抗議らしい抗議をしなかった。メドベージェフ氏は今年7月3日、今度は首相として国後島に不法上陸した。野田政権は「わが国の領土問題に関する立場と相容れない」と発表するにとどまった。プーチン大統領が盛んに進める北方領土の軍事拠点化についても、野田政権の明確な抗議はない。
世界戦略の大枠の中で
その一方で待たされた揚句の首脳会談に笑顔で応じ、「静かな環境を」と言うのだ。国土の領有を巡る難しい交渉を抱えているにしては気迫を欠きすぎていないか。
袴田教授が『安保研報告』7月号に発表したモルドバ共和国の事例を紹介する。旧ソ連の一部だったモルドバはルーマニアの東に位置する。人口360万人、一人当たりの国民総所得1810㌦の小国だ。旧ソ連から独立後、領土問題でロシアと対立を続けて今日に至る。
同国の主要産品のワインは8割がロシアに輸出され、エネルギー源としてのガスの供給を全面的にロシアに依存している。05年、ロシアは領土問題で圧力をかけるべくワインの禁輸に踏み切りガス供給も止めた。対してモルドバ政府はこう宣言した。
「たとえワイン市場を失っても、またロシアのガスを失っても、譲歩はしない。われわれはロシアのガスがなくても震えながらでも冬を過ごす覚悟が出来ている。決して降伏はしない。モルドバはその代価がいかに高くつこうとも、みずからの領土保全、主権を犠牲にはしない」
全国民に領土保全のために苦難に耐える覚悟を促し、戦う構えを見せたモルドバの気迫の前に、ロシア政府は禁輸措置を解除した。領土問題は解決こそしていないが、ロシアによる併合は阻止されている。
袴田教授は、ロシアが日本国に対して「真っ当な敬意を抱かない状況」では領土問題はおろか他の問題でも日本の国益に適う解決策がはかられるはずがないと指摘する。何をされても微笑を保つことが外交ではあるまい。毅然とした対処という言葉は実態を伴わなければならない。モルドバのワインよりももっとロシアが切望する技術や経済力を持っているのが日本である。世界が羨むそうした力を活用する気概を野田首相は持たなければならない。さらに、外交を背後で支える軍事力を整備しなければならない。外交交渉に必要な気迫と力を備えなければならない。
加えていま、ロシアの先行きを冷静に分析し、世界戦略の大枠の中で日露関係の距離をはかるべきだ。首相らは日露LNG共同プロジェクトに前向きだが、なぜいま、ロシアのLNGをほぼ世界一といってよい高値で買い、ロシアとのLNG開発に前のめりになるのか。
米国につぐ世界第2の天然ガス生産国ロシアは、天然資源の輸出を唯一最大の経済の柱としている。製造業がほとんど育っていないロシア経済は、石油にしろ天然ガスにしろ、第1次資源の輸出価格の変動に文字どおり決定的に左右される。ロシアが最大の収入源である天然ガスの価格に拘るのは当然である。
資源同盟国に
彼らは1000立方㍍当たりの天然ガスの値段を3500400㌦と主張する。たとえば中国は足下を見てその半値当たりを主張し、そのうえ、ロシア依存を否定する戦略ゆえに決してロシアから買わないのだ。そこに日本が、福島原発事故後の、火力発電用にほぼ、ロシアの言い値で買い付けに走ってきた。
一方、米国が、ガス採取の、安価で環境への負荷が少ない新技術の開発に成功した結果、世界のエネルギー事情はこの203年、急速に変化し始めた。米国では、天然ガスの価格が2年前には4年前の約半値になり、現在、市場価格で1000立方㍍当たり88㌦を割っている。ヨーロッパでは同353㌦、アジアでは同530㌦の水準だ。ロシアの主張する3500400㌦は生産現場での価格だ。これを液化し、タンカーに積み込み輸送し、流通販路に乗せると、小売段階では非常な高値になる。
一方、米国は20年までにエネルギー需要の40%を天然ガスで賄い、石油依存率を大幅に下げる予定だ。世界最大の石油消費国米国のこの動きは国際社会の石油価格を大幅に下げ、尚かつ天然ガスの価格も間違いなく下げ、ロシア経済には大打撃となる。プーチン大統領がどれほど切望してもロシアが大国として復権するのは難しいと考えるゆえんである。
確実にエネルギー輸出国となる米国は、パナマ運河の拡張工事を14年には完成させる。米国からアジア・太平洋諸国へのエネルギー貿易の大動脈が完成し、運送コストが大幅に下がる。米国の超党派の知日派ブレーンらは既に、日米両国は軍事同盟にとどまらず、資源同盟国になるべきだと提唱した。
こうした日米間の長期戦略を読みとれば、ロシア接近の前に、日本の国家意識を高めることこそ重要だと理解出来るはずだ。領土の返還を求めるのであれば、それを可能にする、軍事力を含むあらゆる力を整えることこそ、野田首相の責任である。