「 “靖國”問題で内政干渉する中国の作戦に揺らぐな 日本の妥協策は憲法違反 」
『週刊ダイヤモンド』 2005年1月22日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 576
このところ、聞き捨てならない話を耳にする。小泉純一郎首相の靖國神社参拝問題で冷却した日中関係打開のために、玉虫色の解決を探る動きが進行中だというのだ。国家の基盤にかかわる事柄で玉虫色の妥協策など、あってはならない。また、靖國神社へのさまざまな働きかけや圧力は、政教分離を謳(うた)う日本国憲法に違反する。
どんな妥協策が考えられているかといえば、靖國神社の中に、A級戦犯といわれる人びとのみを別にお祭りする社(やしろ)を建てることがその一つだそうだ。別の案は、靖國神社にお祭りしている英霊の名簿から、A級戦犯といわれる人びとの名前を削除することだそうだ。
そのほかにも考えられている方策があるのかもしれないが、いずれにしても、これらがなぜ日本側にとって受け入れられることなのだろうか。両案は共に、外国に言われて日本のために亡くなった人びとを貶(おとし)める行為だ。日本の国会は、1953年に全会一致で“A級戦犯”も含めてすべての戦死者を国に殉じた戦没者として認め、その遺族には等しく扶助料、恩給を支給することを決定した。戦勝国が敗戦した日本を裁いたなかで、A級戦犯がつくられていったのは周知のとおりだ。だが、53年の国会決議は、外国政府が何を言おうと日本人だけは、A級戦犯などと言って彼らをその死後まで貶めることはしないと決議したことを意味する。だから今、A級戦犯とそのほかの戦没者を区分して扱うことは、理にも情にも合わないことなのだ。
加えて神道の本質をよく見なければならない。神道には仏教における卒塔婆(そとば)があるわけではない。靖國神社に戦没者たちのお骨があるわけでもない。そこにあるのは、ただ霊魂のみである。霊魂は、名簿から削除されたからといって消滅したり他所に行ったりするものではないだろう。
日本の戦争で命を落とした人びと、敗戦国として受けなければならなかった理不尽な裁判のなかで一方的に裁かれた人びとを、罪人ではなく戦没者として認めたプロセスには、国としての懊悩(おうのう)が滲んでいる。戦没者全員を懐に抱き取った先の国会決議は、当然の帰結である。
永田町で進行中の企みは、こうした日本国の懊悩の歴史を踏みにじるものだ。日本の国家基盤を一角から突き崩す。そして再度強調するが、政治によるこの種の働きかけは憲法の政教分離に反し、明確な憲法違反である。
いったい誰がこのような動きを画策しているのか。信じがたいが、中曽根康弘元首相の名前も、ほかの政治家のそれとともに耳に入ってくる。旧国鉄改革をはじめ、中曽根氏の功績を私は大いに認めるが、靖國神社参拝問題についての氏の行動は、氏の経歴上、最大の汚点として歴史に残るだろう。中国から批判されて氏が参拝を取りやめたのは86年だ。以来、日本に対し中国が内政干渉し、日本人の心の問題にズカズカと踏み込んでくることがまるで慣例のようになった。こうした傾向の出発点をつくったのが中曽根氏である。そして氏は今“分祀(ぶんし)論”を展開、“落としどころ”を探っているというのだ。
氏だけではない。小泉首相にきわめて近い政治家も中国を訪れ、胡錦濤国家主席周辺の人物と会合した。会談の席では中国側から「靖國なんかどうでもいい」との言葉が出たそうだ。面子(メンツ)さえ立てば中国は鉾(ほこ)を収めると言っているのだ。中国は、領海侵犯と相殺のかたちで持ち出した歴史問題への反発が予想外に強く、ODAにも実質的影響が及ぶことなどを警戒しているのだ。
中国は、必要なら対日歴史カードを使う。不必要なら引っ込める。だからこそ重要なのは、日本が揺らがないことだ。靖國神社参拝問題での安易な妥協を許せば、日本国の歴史上、大きな汚点となるだろう。