「 南シナ海、中国が分断するASEANの団結 」
『週刊新潮』 2011年8月11・18日号
日本ルネッサンス 第472回
覇権争いの熱い舞台、南シナ海では、東南アジア諸国連合(ASEAN)が中国の軍事的脅威と経済的牽引の両軸間で揺れ続け、当の中国は南シナ海の内海化に向けて、着実に歩を進めつつある。
杏林大学名誉教授の田久保忠衛氏が警告する。
「昨年、団結したかに見えたASEANが切り崩されつつあります。とりわけ中国のベトナム及びインドネシア取り込みを最も警戒すべきです。しかし、日本は無論、米国のオバマ政権も中国の意図の深刻さを十分に読みきれているとは思えません」
南シナ海における中国の傍若無人の行動を米国が警戒し、「南シナ海の航行の自由」に言及して明確にASEANの側に立ったのは昨年だった。ASEANは中国の脅威の前に団結したかに見えた。
しかし、中国は素早く動いた。昨年10月末、インドネシア、シンガポール、日米と共に長年「コブラ・ゴールド」合同演習に参加してきたタイと初の海軍合同軍事演習を行ったのだ。南シナ海問題に関して中国と直接ぶつかる立場ではないタイに接近し、中国は高速鉄道網建設の枠組み協定を結び、巨額の借款を与えた。その少し前、10月21日、タイ政府は「南シナ海領有問題は2国間の議題だ。ASEAN全体の議題にすべきでない」と述べた。ステープ副首相は後に、中国、ラオス、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポールを結ぶ高速鉄道を一日も早く完成させ、中国・ASEANの経済貿易交流を強化したいとも語った。
国内の高速鉄道事故の被害者や遺族の不満を、補償金を積み上げ金力で解決しようとするように、領土領海をめぐる深刻な問題も、財力に物を言わせるのだ。人口と豊富な資源ゆえにASEANの大国の地位にあるインドネシアも、中国の金権外交の前に大人しくなる。
次はベトナム
「今年4月28日、温家宝首相がインドネシアを訪れ、2国間貿易額を現在の400億ドル(約3・2兆円)から2015年までに倍増させると謳い上げ、90億ドル(約7,200億円)の融資を表明しました。インドネシアをカネで縛りつけるのです」
こう指摘した田久保氏は、次はベトナムだという。国境を接し、戦火を交えてきたベトナムは、愛憎入り混じった強い感情を中国に抱く。
1年前の7月23日、ハノイで開催したASEAN地域フォーラム(ARF)で、ベトナムは強い反中国の姿勢をとった。その直前の6月に中国が南シナ海でベトナム漁船31隻を拿捕し、両国関係は険悪だった。
今年5月26日、関係をさらに悪化させる事件が起きた。ベトナムの海岸から東方約220キロ、中国の海南島から南に約600キロのところにあるベトナム国営石油会社ペトロベトナムの開発鉱区で、ベトナムの石油探査船のケーブルを中国の監視船が切断したのだ。
ベトナム政府は「領海保全のために必要ないかなる行動もとる」と強く抗議したが、中国側は「正常な取り締まり活動だ」と言って意に介さず、5日後の31日、中国海軍の艦船3隻が南沙諸島海域でベトナム漁船4隻に自動小銃を威嚇発砲した。
6月5日、シンガポールのアジア安全保障会議で、ベトナムのタイン国防相は「周辺海域と地域の安全に深刻な懸念が生じている」として、烈しい中国非難を展開した。この日からベトナムでは反中国デモが始まった。共産党独裁体制のベトナムでは、デモは封殺されるのが常だ。しかし、中国批判のこのデモは黙認され続けた。13日には、ベトナム海軍が「武力の誇示は緊張を高めるだけ」という米国の反対を押し切って、南シナ海で実弾演習を行った。
ところが7月、奇妙な変化が生じ始めたのだ。田久保氏の指摘だ。
「7月15日から米越合同軍事演習が行われました。当初は全メディアに公開される予定でしたが、突然非公開になった。参加したイージス艦2隻は遠く沖合で展開させられました。つまり、メディアを最大限遠ざけて、対中抑止力を報道しにくくさせたと思われます」
6月5日以来、日曜日毎に行われていた中国非難のデモも7月10日以降、ベトナム政府が抑えにかかった。ベトナム政府は重大な方向転換をはかりつつあると見てよいだろう。
「その兆候は6月中旬の中越共同巡視活動にも見てとれます。このときベトナム海軍の艦船が海南島近くの南海艦隊軍港、湛江に入りました」
海南島は重要な海軍基地を擁す。09年3月に、米国の調査船インペッカブルは同島海域からかなり離れていたにも拘らず、5隻の中国艦船に取り囲まれ、スクリューの破損をもたらす、丸太を海に投げ入れられる事件があった。中国側の激しい反応は、海南島の潜水艦基地に関する情報を収集されたくなかったからだと言われた。中国が神経過敏になる重要な軍事拠点、海南島にベトナム海軍は近づくことが出来たのだ。
日本の危機は眼前に
「6月25日にベトナムのホー・スアン・ソン外務次官が北京で戴秉国国務委員と会っています。余程のことが話し合われたと思われますが、情報はもれてきません」と田久保氏。
明らかなのは、中国のASEAN工作が着実に成果をあげ、ASEANの団結が溶解し始めていることだ。その中で明確に米国側についたのがフィリピンである。同国外務省は6月1日、南沙諸島のフィリピン領海内で中国の海洋調査船が相次いで「領海侵犯し、鉄柱やブイを設置した」と抗議したと、公表した。
だが、フィリピンには自前の海軍はなきに等しい。中国の、潜水艦65隻、主要艦80隻、ミサイル艦253隻に較べて、フィリピン側には主要艦が1隻と小型のミサイル艇が62隻あるだけだ。しかも、フィリピンの主要艦は米海軍の第二次大戦時代の旧式艦であり、話にならない。
「フィリピンが米国に縋ったのです。92年に基地を閉鎖させ、米軍を追い出したけれど、中国の脅威に怯えて米比相互防衛条約は破棄していない、同条約を南シナ海にも適用すると表明してほしいと、泣きついたといえます」
米国はフィリピンの要請を受け入れた。南シナ海問題に関して、初めて、軍事的関与もあり得るとの立場を明らかにしたといえる。
だが、事は容易ではない。米国は民主主義の国だ。財政赤字に悩むいま、新たな軍事的関与については、とりわけ民意を気にしなければならない。一方、中国は共産党独裁で、民意に縛られない。財政的余裕もある。加えて国際法も無視して中国はやってくる。南シナ海問題は即東シナ海問題である。軍事力も経済力も心許ない日本が、フィリピンと同じ立場に立たされないと誰が言えるだろうか。日本の危機は眼前にあることを忘れてはならない。