「 健康被害解決への専門家の声 」
『週刊新潮』 2011年5月10日号
日本ルネッサンス 第460回
福島第一原発から半径20㌔圏内の警戒区域への住民の一時帰宅が10日から始まる。危険回避で避難中の人々は現在7万8,000人、約2万6,000世帯に上る。避難所生活は特にお年寄りには重い負担である。すでに少なからぬ方々が亡くなり、認知症が進んだ方もいる。働き盛りの世代は田畑も家畜も失い、仕事にも行けない。将来の生活の目処が立たない不安の中にあるからこそ、一時帰宅の発表に歓声が上がった。
それにしても、人体に健康被害を及ぼす累積放射線量とはどのレベルなのか。政府や国際放射線防護委員会(ICRP)の厳しい基準はどこまで厳密に適用すべきものなのか。
癌医療の専門家として長年、放射線を取り扱ってきた県立静岡がんセンター総長の山口建氏は、原発事故で多数の住民がすでに年間1㍉以内という一般住民向けの基準を超える放射線を浴びたいまこそ、新しい発想が必要だと語る。一人ひとりの住民の被曝線量を正確に把握し、健康管理を厳密に行い、健康被害を防ぎつつ、住民を自宅に戻すことによって、種々の健康問題を生じさせている避難所生活から解放することが大事だという。
一時帰宅者が白い防護服、ゴーグル、二重手袋などで重装備してようやく立ち入りを許されるような場所にも住民を戻し暮らさせるという考えは、癌患者やバセドウ氏病に対する放射線治療の第一線での知見から生まれた。
キュリー夫人以来、人類が放射能の知識を持ち始めてたかだか100年、放射線の身体への影響の分析は、未だ大半が推測の世界にとどまっている。現在、確実なことは年間100ミリシーベルト以上の被曝では健康被害が生じる可能性が高いという点だ。にも拘わらず、一般人の被曝許容量として、年間で自然に浴びる2・4ミリの放射線に1ミリを加えただけの厳しい基準が作られた背景には、100歳まで生きて初めて100ミリシーベルトに達することと、未知の事象について人間は慎重になりがちなことが反映されていると、山口氏は見る。
論理的に矛盾
一方で、ICRPは病院で放射線を取り扱う医師や技師や原発の作業者の被曝許容量の基準として、「5年間で100ミリ(年平均で20ミリ)、または1年で50ミリを超えないこと」を提唱している。「この範囲では健康被害はなにも起こらないと思います」と山口氏は語る。
「年間1ミリシーベルト以内という一般人に対する基準は、絶対に健康被害を出さないという点で、今後も守るべきだと思います。特に乳幼児や学童や妊婦については大切です。一方、医療の現場で働き、多くの症例を見てきた立場でいえば、40~50歳以上なら、一人ひとりの被曝線量をしっかり管理すれば医師や放射線業務従事者の基準は絶対に大丈夫な数値といえます。この点を踏まえ、現在のような非常時にどう対処するか。避難による健康被害と放射線被曝による健康被害の可能性を考えれば、ICRPの緊急時の勧告を踏まえて成人の一般人向けの限度はもっと上げてよいと思います」
国際社会や国の定める安全基準は法的には正しくても、論理的に矛盾しているとも氏は指摘する。なぜなら、一般人と、医療現場や放射線業務に従事する専門家の基準がダブルスタンダードになっているからだ。
「過去のデータによれば、100ミリシーベルト未満であれば、癌の発生は増加していないというのが国際社会の見方です。それを超えると癌の発生率はわずかに増加傾向を示し始めます。1,000人の日本人の内、癌で命を落とす人は300人程度ですが、仮にこの1,000人が100ミリシーベルトの放射線を浴びたとすれば、癌で命を落とす人が5人増えて、305人になると計算されています。
いま、福島で語られているのは20㍉。成人であれば、医学的に癌が発生しないといってよいレベルです」
人類は自然界や原水爆実験、或いは医療目的で多くの放射線を浴びてきた。ICRPの2007年の勧告やUNSCEARの2000年の報告書などによると、人間が受ける年間の自然放射線量は世界平均では2・4ミリだが、日本は1・5ミリだ。一方ブラジルでは場所によって10ミリを超え、イランのラムサールでは、なんと100ミリを超えている。
他方、放射線量に限界が設定されていないのが医療で、必要に応じて高い線量が使用される。胸部CTスキャンでは1回毎に6・9ミリの線量を浴びる。1年に3回受ければ、年間許容量の20ミリを超える計算だ。PET検査1回でおよそ3・5ミリを、X線CTを組み込んだPET/CT検査では数ミリから十数ミリを浴びる。
甲状腺の診断に薬を飲ませるシンチグラムという検査があるが、それによる内部被曝は10ミリ前後だ。バセドウ氏病の治療ではベクレルで億単位という極めて大量のヨウ素131が投与されるが、長年の観察でも晩発性の放射線障害はなく、安心して用いられる治療になっている。
医学者の声に耳を
「医療では病気予防と治癒のためにリスクとベネフィットを考えて放射線を浴びせます。また私たち医師は、すでに触れたように一般人より高い放射線量を浴びる法的物理的環境の下で働いています。かといって医師の健康が危険に晒されるのではなく、きちんと守られる範囲内です。
であれば、福島で年間1ミリまでを許容値とする厳しい基準を守った結果、お年寄りが避難所で亡くなり、働き盛りの人が働けない現状を、40~50歳以上の住民に、医療従事者に近い年間20~50ミリの基準を適用することで変えたらよいのではないか。本人が望めば自宅で暮らせるようにする方が望ましいと考えるのです」
但し、そのために守るべきことが少なくとも3点ある。①各人に医療従事者と同じ放射線量測定記録用のバッヂをつけさせ、線量計を用いて、住居周辺の線量を把握する、②子供や若い人々の家庭は対象にしない、③生活に必要な物品の供給や警備を充実させること、である。
①は一人ひとりの厳密な健康管理に欠かせない。記録した各人の放射線量は政府の責任で管理し、研究機関を設置し医学の発展に役立てる。そのうえで、20~50ミリシーベルト近くになったら1年間の限界値を超えないように地域を離れる。温泉でも旅でもいい。費用は東電または国の負担でよいではないかと山口氏は語る。
「②は若年者については、十分なデータがなく、チェルノブイリでも多くの被害者が若年層であったことを考えての措置で、③は健康被害が生じない高齢の職員が住民をサポートすればよいと思います」
放射能の人体への影響について、明確な基準が確立されていない中で、医療現場で放射線障害と向き合い、症例と体験に裏打ちされた医学者の声に耳を傾けたい。