「 私は番号になりたくない 」
『週刊新潮』 2002年1月31日号
日本ルネッサンス 第4回
読者の皆さんは御存知だろうか。今年8月には生れたばかりの赤ちゃんからお年よりまで、国民全員に11桁の番号がつけられ、国民総背番号制が始まることを。
これは99年8月、小渕内閣で成立した改正住民基本台帳法によるものだ。同法律によって住民コードと呼ばれる番号がつけられ、一生涯、私たちの識別番号となる。
政府はこの番号の下に、住所、氏名、生年月日、性別の4項目情報を入力し、全国の都道府県や市区町村を結ぶコンピュータネットに登録し、公益法人の全国センターに管理させるという。これで、どこでも、住民票が取得できる便利な社会が出現し、本人確認が簡単になり恩給給付の手続きも効率アップし、行政事務が簡素化されるというのだ。
同法律に基づいてプラスチック製のICカードも同時発行される。一人一人が持つことになるこのICカードの容量は、新聞紙面8000ページ分にも匹敵するといわれている。
ここまでお読み頂いて、このはなしの非常な胡散(うさん)臭さを感じる人は多いはずだ。
まず、たかだか住民票のために、なぜ全国ネットのコンピュータシステムと国民総背番号と膨大な容量のICカードが必要なのか。一体、私たちの一生で何回、住民票の取得が必要だというのか。現実のニーズとかけ離れた制度のために、膨大なお金をかける。政府は初期投資400億円、ランニングコスト年間200億円と主張するが、現場の担当者は意図的な過小見積りだという。
それに、先の4項目情報なら、他国に例をみない戸籍制度と住民登録制度の整備によって日本政府はすでに完璧に把握済みだ。
行政事務の簡素化というが、取材した地方自治体は例外なく、作業をこなすため、職員をふやすか、外注に頼っていた。行政事務の負担は確実に増加しているのだ。
日本弁護士連合会の地方自治体への調査では改正住民基本台帳法は住民にとってデメリットが大きいと答えた自治体は219、今後、このシステムを推進していくべきでないと答えた自治体は119にのぼった。
地方自治体にとって鬼より恐い監督官庁の総務省を尻目に、はっきりと、デメリットが大きい、システムには反対と答えた自治体が各々、3桁の数だけあったことを過小評価してはならない。それほどこの国民総番号制への批判は強いのだ。
では、8月になって、実際に私たち全員に番号がふられると、どんなことがおきてくるのだろうか。
まず、心配なのが、プライバシーの侵害である。先の4項目情報に加えて、実際には、国民番号は納税、介護保険、医療保険などにも使用されるだろう。私たちの所得や経済状態が、税務署に知られるのはともかく、市区町村や公益法人の全国センターの職員に知られる必要はないはずだ。また、私たちがどんな病気にかかりどんな医療を受けたかなどを医師が把握するのはともかく、これまた地方自治体や全国センターの職員に知られる必要はないはずだ。
科学の発達した現在、一人一人の遺伝子情報も医療情報として統一番号の下で集積され登録されかねない。“優れた”遺伝子をもつ人間とそうでない人間という分類さえされかねない。新たな罪深い差別の源となりかねない。
すでに実用化されている多種多様なカードシステムや番号制度と住民基本台帳法が、時を経ずして合体するであろうことは、目に見えている。個々人の行動を四六時中、電子ネットで監視することが容易に可能になるのだ。
利便性の裏にひそむコンピュータ社会の恐ろしさは斎藤貴男氏の『プライバシー・クライシス』(文春新書)に詳しいが、コンピュータに登録された情報は、識別番号と共に、その人にずっとつきまとうことになる。
若く未熟な時代に犯した過ちなどは、従来、その人が成長し学んでいけば乗りこえ償われ、やがて全てが恕(ゆる)されてきた。これが人間であり、人生である。しかし、コンピュータは人間の些細な過ちさえ、忘れてはくれない。過ちは恕されることなくその人に一生つきまとう。こんなシステムでよいはずがない。
国民を番号化し、個人情報を集積することは、国家による国民監視の格好の道具ともなる。国民総背番号制が、いかに初期の目的からはずれて自己増殖していくかを、米国の社会保障番号制でみてみよう。
同番号は当初、公的年金や社会保険目的に限定されていたが、62年に納税者番号としても使われ始めた。以来用途は広がり、今や、カードでの買物、電話や水道料金の支払い、ローンの申し込み、図書館やビデオショップでの借り出しも、同番号なしにはほぼ不可能だ。交通違反、税金、病歴、結婚歴、離婚歴、全ての個人情報が番号の下に集積されていく。
米国の例は、いくら利用目的を限定しても、利便性、効率性、経済性の名の下に番号制の使用目的は拡大されていくことを告げている。
韓国では北朝鮮との対立関係から、工作員などへの監視の必要もあり、厳しい国民監視の必要性が論じられてきた。そして、97年に電子住民カードの導入が一旦、法整備された。が、激しい議論の末、カードは持たせるものの、そのカードにICチップを埋め込むことは断念された。国民の個人情報を政府が余りにも一元的に握ることは、情報による政府の国民支配を強め、個人情報の悪用に歯止めをかけることができないというのが理由の一つだった。
ドイツは、国民総背番号制は人間の尊厳への挑戦であり、違憲だとして、これを断固退けた。
スウェーデンなど北欧諸国は国民総背番号制を実施しているが、国民は、人間である前に番号としての存在でしかないとの批判が強い。世界各国で、国民総背番号制にこれだけの批判的な意見がある。
今回の日本政府の措置は、世界のどこでも実施されていない国民総背番号制プラスICメモリ付きカードの発行である。人間の知性や理性や良識は、いま、コンピュータやネット社会の、想像をこえた凄まじいまでの力を伴った変化の前で、しばし、立ち往生しているのではないか。私たちの良識がたしかにコンピュータを使いこなせるという自信も不十分なときに、日本一国のみ、最先端技術を駆使して他国に例をみない突出した国民徹底管理の制度を構築することは間違っている。
番号をふられICカードを持たされる国民の姿は個人情報を逐一把握され、国家によって支配され、プライバシーの侵害を恐れる脆弱な姿である。自由を保障され、一人一人がのびやかに生きる健全な民主主義社会の姿とは程遠い。闊達な精神と尽きない創造の力、深い理解力を持った魅力的な人間集団としての国家は、その基本で、最大限の自由が保障されているはずである。日本はそんな国を目指さなければならない。
そして私は国民ではあるが、番号ではない。番号になることも断じて嫌である。今からでも遅くはない。私たちはこの悪法、改正住民基本台帳法を廃止すべきである。国民の多くがその存在さえ知らない悪法によって、この国の自由なる精神を阻害してはならない。