「 『盧武鉉・韓国前大統領』転落死が映し出す異常な『韓国情勢』 」
『週刊新潮』 2009年6月4日号
日本ルネッサンス拡大版 第364回
2002年4月、韓国で『妻よ、少し助けてくれないか』という著書が再出版された。このくだけた題名の書の著者は、5月23日に「自殺」した盧武鉉前大統領である。同書には次のようなことが書かれている。
「子どもの頃、ひどい劣等感をもっていた。心の奥底に他人への恨みや敵対心を抱いていた」「これは、常に不遇を嘆いていた母の影響が大きい」「ある日学校で、金持ちの子の鞄をカミソリで切り裂いた」「結婚生活では女房をいつも殴ってでも、言うことをきかせることが大事だ。これは(私の場合)言葉だけのことではなかったこともある」「男なら、少なくとも女3人くらいは常に周りにはべらせておかなければならないと考えたこともある」
これらが「当たり前だと思っていた」盧武鉉氏は「左翼運動圏」、つまり左翼勢力と出会って転機を迎えたそうだ。たしかに、弁護士時代、氏は、左翼運動家の弁護人を務めた。氏はさらに書いている。
「自分は左翼思想を通じて目覚めた」「以前の自分の悪い面は、資本主義の悪弊だった」
研究対象にしたいほど奇妙な考え方だ。事実、盧武鉉大統領が誕生して1年目の2003年、韓国政治学会で「盧大統領の性格類型とリーダーシップ類型についての研究」という論文が発表された。全体として氏の性格に疑問をつきつけた論文だったが、著書が示す盧武鉉氏は、まず、論理的に支離滅裂だ。「女房を殴った」り、「女3人をはべらせる」願望と資本主義と、どんな関係があるのか。すべて氏自身の問題にすぎない。
自分の欠点を資本主義の所為だと考える人物が大統領となり、最高権力者として、種々の新法を施行した。もはや、資本主義の“悪弊に汚染”されるのではなく、反対に、自分の考えで韓国を導く強い立場に立ったとき、氏は何をしたのか。
後述するように、氏は大統領任期切れを前に膨大な量の国家機密を盗みとった。また、氏の、夫人や子どもらは、巨額の収賄事件を起こした。氏自身も4月30日、大検察庁中央捜査部によって、「特定犯罪加重処罰法上の賄賂収受嫌疑」の被疑者として、10時間に及ぶ事情聴取を受けた。
疑惑の真っ只中で氏の突然の死が発生した。そのことに対する韓国社会の反応はこれまた極めて奇妙だ。前大統領の死を悼むあまり、検察官らを“人殺し”とののしり、李明博政権を“虐殺政権”と呼んで退陣を求める極論もある。
ソウルでは、ちょうど昨年の今頃、BSEと米国産牛肉の輸入をめぐる非科学的な捏造報道で政権打倒を叫ぶ大々的な違法デモが展開された。李大統領はその悪夢の再来を恐れるかのように、今回も、ひたすら低姿勢を保った。盧武鉉氏の葬儀を国民葬とすると即決し、法務部(省)長官(大臣)は早くも盧武鉉氏自殺の当日、「盧武鉉前大統領関連の捜査打ち切り」を公式に発表した。
国家反逆に値する罪
これらは果たして適切な判断なのか。盧武鉉氏の行状で見逃せないのは退任1年前から周到に準備されていた国家機密情報持ち去り事件だ。07年4月、盧氏は大統領記録物管理法を制定し、現政権が大統領府記録館に引き渡す情報のうち非公開と指定した件については、国会在籍者の3分の2の同意なしには、15~30年間、閲覧禁止とした。
そのうえで氏は、青瓦台のイントラネットシステム(e―知園)とまったく同一のもう一つのe―知園を、ペーパーカンパニーを通して外注し、離任直前、5日間かけてほぼすべての情報を持ち去ったのだ。
新たにつくったe―知園は慶尚南道金海市烽下の盧武鉉氏の私邸に設置された。
持ち去られた240万件の情報はすべてオリジナルの情報で、人事、北朝鮮、警察、国防機密、外交機密など、全重要情報が含まれていた。大統領府記録館に移された情報のうち、40万件は前述の大統領記録物管理法第17条によって現政権の閲覧は出来なくなっている。
韓国には国家反逆罪があるが、盧武鉉氏が犯した前代未聞の国家機密丸々持ち去り事件は、そのような罪に値するものではないのだろうか。しかし韓国では、この事件よりも収賄事件が注目を浴びているのだ。
清廉だったはずの“愛するノムヒョン”までもが汚職にまみれていたことへの、庶民の支持者の失望は深い。
検察側が突きつけた収賄容疑から主な項目を拾ってみる。①07年6月29日、青瓦台で権良淑(クオンヤンスク)夫人が朴淵次(パクヨンチヤ)氏から100万ドルを受けとった、②盧夫妻の長男らがタックスヘイブンのバージン・アイランドに設立した会社に08年2月、500万ドルが、朴淵次氏から振り込まれた、③盧夫妻の還暦祝いとして、夫妻は朴氏から時価1億ウォン(約725万円)のピアジェの時計、計2個を受けとった。
①について良淑夫人は100万ドルの受け取りを認め、「借金返済に使った」と述べた。だが、なぜ、ドルなのか。早稲田大学客員研究員の洪辭秩iホンヒョン)氏が語る。
「夫妻には娘と息子がいます。夫人は、子どもたちが米国滞在中の07年5月に、20万ドル、9月に40万ドルを送金しています。長女はニューヨークで160万ドルの高級マンションを契約していました。夫人が朴氏から受け取った100万ドルと送金したカネは同一なのか。検察官が盧武鉉氏に尋ねたところ、妻から説明は聞いたが、内容は公開出来ないと回答しています」
②の500万ドルは退任後の事業資金とみられるが、捜査打ち切りで真相は不明だ。米国への送金について、良淑夫人はざっと次のように語ったと洪氏。
「良淑夫人は、息子も娘も、大統領の子息として、韓国で多くの人の目に晒されて不自由に暮らすよりは、アメリカで自由に暮らさせてやりたかった、そのために、家がほしかったと語ったそうです。盧武鉉氏は大統領になる前からも、反米でした。結果、韓国の若者たちの間で、米国と北朝鮮が戦えば、北朝鮮と共に米国と戦うという声が大きくなったほどです。その反米を煽った人物と夫人が、子どもは米国で自由に暮らさせてやりたいと言うのです」
第3の疑惑について、盧武鉉氏は、当初、知らなかったと述べ、次に、妻に問い質して知ったが、妻は高価な時計の受け取りは問題だと悟り、時計を田んぼに捨てたので、もはや手元にないと語った。
「結果、韓国では田んぼに2億ウォンの宝物を探しに行こうというジョークが広まった。バカバカしい言い訳です」と洪氏は憤る。
ちなみに、夫妻をカネと宝石でもてなした朴淵次氏は盧武鉉氏の最有力後援者である。彼は盧武鉉政権と結びついて、本来の運動靴製造の他に不動産取引などで巨額の富を得た。また彼は千信一氏という人物と非常に親しく、千氏は李大統領と高麗大学の同期、大統領の親友である。
左傾化する韓国社会
洪氏の怒りとは反対に、韓国世論には奇妙な盧武鉉夫妻擁護の声が目立つ。たとえば「生計型犯罪」という主張だ。
盧武鉉大統領の首席広報官だった趙己淑梨花女子大学教授は、600万ドル受け取りは、「生計型犯罪」で、全斗煥、盧泰愚大統領らの「組織型犯罪」と区別し、特段咎め立てするべきではないと主張する。
「つまり、盧夫妻は貧しい家庭の出身だからこそ、おカネを必要とし、受け取ったのであり、元々富める権力者階層出身の全斗煥元大統領らの犯罪とは異なる、だから、罪に問うのは酷だと言っているのです。韓国世論がこの種の暴論に同調しているとは思いませんが、盧武鉉氏支持の左翼活動家らは、このような考えを発信し、韓国を再び、盧武鉉時代の左傾社会に引き戻そうと画策しているのです」
ここで、2006年11月に起きた衝撃的な事件を振りかえってみる。11月1日、国家情報院長の人事が、盧武鉉大統領によって一新された。国家情報院は韓国の諜報情報をはじめ、内外の機密情報を一手に握る機関だ。旧院長の下で、韓国唯一の社会主義政党、民主労働党の李政螢氏iイジヨンフン)前中央委員と崔基永(チエキヨン)事務副総長らが逮捕された。両人と北朝鮮の密接な関係を示す大量の指令文や通信文も押収された。06年10月26日のことだ。ところが11月1日、突如、旧院長は“辞任”し、新院長に盧武鉉氏が全幅の信頼を置く金萬福氏が就任した。結果、韓国を揺るがしたスパイ事件の摘発は、あっという間に終息したのである。
洪氏が語る。
「盧氏の周りにはこんな疑惑が一杯です。北朝鮮と一体化した左翼勢力にとっては盧武鉉氏こそ、彼らの砦だったのです。その盧氏が、収賄で泥にまみれて死亡したということには、左翼は絶対にしたくない。だからこそ、生計型犯罪などという滑稽な理屈をもち出して、盧武鉉擁護の世論づくりに必死なのです」
李明博大統領はしかし、先述のように、盧武鉉氏の汚職事件にも、機密情報事件にも終止符を打った。なぜか。洪氏は言う。
「反逆とか不法に対する怒りがないのです。商売人にすぎないのです。加えて盧武鉉夫妻に巨額のカネを渡した朴氏のバラ撒き先には、複数のハンナラ党議員も入っていると見られています。李大統領の足下も、確かなわけではないのです。皆、さまざまな意味で、盧武鉉氏の死に、ほっとしている可能性があります」
大統領の国家機密持ち去り事件も、スパイ摘発の中止事件も、収賄という卑小な事件とともに、闇の中に塗り込められようとしている。国家の危機に目をつぶる韓国の異常が見えてくる。