「 ウイルスを迎えうつ準備を急げ 」
『週刊新潮』 2009年5月28日号
日本ルネッサンス 第363回
先週の当欄で、感染症対策の専門家高橋央(ひろし)氏が、「新型インフルエンザの感染に関しては、1週間単位で局面が変化する」と予見したことをお伝えした。氏は、かつてCDC(米国疾病予防センター)に在籍し、SARS発生のときにはWHO(世界保健機関)のコンサルタントとしてフィリピンでのSARS封じ込めのチーム・リーダーを務めた。
氏の指摘どおり、今、私たちは国内での発症者の続出に直面している。状況の展開は他国の実況から推測出来る。
まずメキシコである。メキシコ政府は、4月末に感染症例を312例と確定した。以降、症例は次のようにふえていった。5月3日までに500症例突破、7日までに1,000を突破、10日までに1,500を、12日までに2,000を、14日までに2,500近くになり、18日時点で3,000を軽く超えた。
米国も凄まじい増え方だった。4月15日にカリフォルニア南部で最初の症例がぽつんと報告されて以来、5月7日までの3週間で感染者は900人に迫った。9日には1,500症例を、11日には2,500症例を突破した。14日、CDCは新型インフルエンザの感染者の定義を変更し、感染の可能性が極めて濃厚な「疑い例」を感染者に含めるとした。結果、感染者は4,298人に達したが、CDCは以降感染確定症例数は公表しないと決めた。
「もう、追いつかないのが実情です」
と、高橋氏。
両国の事例から、新型インフルエンザの勢力がまったく衰えていないことが見えてくる。感染者はまだ増え続けるということなのだ。日本もどうなるのか。高橋氏が警告した。
「日本の場合、メキシコよりも米国との比較が適切です。そして日本では米国よりもっと激しく、感染者が増えるでしょう。理由は主に3つ。①人口密度が米国に較べて極めて高い、②診断キットの普及で都道府県レベルで症例を見つけられる、③日本人は真面目なので、保健所や医師に正直に相談をすることです」
高齢者情報も慎重に
症例数の増加は警戒すべきことだが、そのなかにも、前向きの要素が読みとれる。つまり、米国などその他の国々では見逃されがちな症例も、日本では把握出来るということだ。
「国内感染の初の症例となった神戸の高校生は、渡航歴がないにもかかわらず、念のために調べてもらい、新型インフルエンザと判明しました。ウイルスが日本に侵入しているという意識があったからこそ、調べてもらおうと思ったわけで、私はその点、あの高校生は賢かったと思います。日本人の意識の高さを示していると共に、むしろ、専門家の意識の立ち遅れが目立ちます」
右の国内初の感染の確認が5月16日、わずか2日後の18日、大阪府と兵庫県での感染者は159人に上った。「米国よりも激しく感染者が増えていく」という高橋氏の言葉を実感させられる数字である。数日を経ずして、感染は他県、他地域に広がり、患者数も桁違いとなり、鰻登りの傾向を辿ると考えてよいだろう。
舛添要一厚生労働大臣は18日、軽症患者は入院させずに自宅療養させるべく、方針を転換する旨、明らかにした。現在の政府の対策は、致死率が60%を超える強毒性のトリインフルエンザウイルスの襲来を念頭に置いたものであるため、発症者の増加に伴って一斉休校や各種集会の中止など、厳しい措置を伴う。発症者は厳重に隔離される。結果、大阪や兵庫ではすでに一部の感染症指定医療機関で、ベッド数が不足気味だ。橋下徹大阪府知事は、「これでは大阪はもたない」として対応の緩和を訴えた。現実に柔軟に対処するのは大事だが、その際に気になることがあると、高橋氏は語る。
「このウイルスを誤解してはならないと思います。新型インフルエンザは季節性のインフルエンザ並みといわれます。季節性でも国内で年間1万人は死亡しています。たしかに新型インフルエンザの致死率は0.1%から0.4%のようですが、特徴は幼い子供、若い人たちや妊婦など、近未来の社会を担う次世代の命を最も多く奪うことです。さらに新型の場合、感染者の増え方は、季節性インフルエンザとは比較になりません。安心することも、軽く見ることもしてはならないのです」
また、高齢者には犠牲者が少ないという情報も慎重に考えるべきだと氏は指摘する。
「若い世代に較べて抵抗力が弱いのが高齢者です。お年寄りが集中して暮らす集落や施設に新型インフルエンザが入っていけば、当然、厳しい状況が生じます。また、体力の弱っている患者さんが集団で存在する一般病院にウイルスが侵入すれば、健康人の集団と較べて、状況は一層厳しくなります。つまり、どの年齢層に関しても油断は禁物なのです」
自衛隊員にタミフルを
では、今すべきことはなにか。
「まだまだ不十分なのが、患者さんを診断し医療を施す側の人々の防護が足りないことです。医療関係者も家庭人ですから家族に感染者が出れば、感染し、患者を診ても感染の危険に晒されます。結果、危機のときには40%の医療関係者が働けなくなると推測されています。しかし、これでは現場は機能しません。院内スタッフの感染率は、最大でも20%に抑え込むことが大事なのです。そのためには、彼らに予防としてタミフルを飲ませることです」
トリインフルエンザウイルスについての対策を整える過程で、大流行(パンデミック)に備えて、政府関係者、医療関係者、自衛隊、警察官、消防隊員など、社会の機能維持に必要な職種の人々には、優先してタミフルを服用させるとの決定がなされた。にもかかわらず、十分には実施されていないのだ。
たとえば自衛隊である。彼らは通常の任務に加えて、パンデミックやテロ、ミサイル攻撃などの際には、重要な役割を担うことが期待されている。国家や国民が最悪の事態に陥った場合、最もきつい任務をこなさなければならないのが自衛隊である。今回も、すでに空港での検疫体制を支えてきた。言うまでもなく、自衛隊員は、新型インフルエンザウイルスによる犠牲が一番多いと言われる若い人々の集団である。集団で暮し、集団で任務をこなす彼らは、それだけでハイリスクに直面する。だからこそ、自衛隊員には、医療関係者やその他、先述の優先職種の人々と同じく、一般国民に先立ってタミフルを服用させるべきなのだ。
民間病院ではすでに診療拒否の現象もみられる。正しい知識の普及とともに、最も困難なときに最も働かなければならない人々の保護を十分にして、はじめて、危機を乗り切ることが出来る。そのための準備を怠ってはならない。