「 中国の海洋戦略、驚くほどの実利志向 」
『週刊新潮』 2023年12月21日号
日本ルネッサンス 第1078回
米政策研究機関「戦略予算評価センター(CSBA)」の上級研究員、トシ・ヨシハラ氏は中国人民解放軍(PLA)の海洋戦略研究における第一人者だ。その人物による近著『毛沢東の兵、海へ行く』(扶桑社、田北真樹子訳)は衝撃的だった。
今でこそ、米国に迫る海軍大国だが、中国は元々陸軍の国だと定義されてきた。彼らの海軍への関心は1970年代まで希薄で、鄧小平の改革開放を機にようやく海洋に目が向けられるようになり、鄧の指示によって劉華清が人民解放軍海軍(PLAN)を本格的に創り上げたというのが、これまでの解釈だった。私もそう考えていた。だが、そのとらえ方は間違っていたことをヨシハラ氏が喝破した。
毛沢東は蒋介石の国民党軍との戦いを通して早くも1940年代終わりには海軍建設の必要性に目醒めていた。蒋介石が台湾に逃れたことから、国共内戦で国民党軍を排除し、確実に勝利するには海軍力が必要なことに否応なく気づかされたと、ヨシハラ氏は指摘する。
ヨシハラ氏はPLAが、自らが戦った数々の海戦の歴史から学び、現代の戦略・作戦思想に活かしていることに留意する。その観点から、過去を序幕ととらえて将来予測につなげることが大事だと指摘する。現在の中国にとって紛争の危機となる可能性が最も高いのは台湾、東シナ海、南シナ海だ。中国との対立が考えられるこれらの海域の問題に関してヨシハラ氏の警告を深く読みとることが大事なゆえんだ。
毛沢東は国民党に勝利し、49年10月1日に中華人民共和国を樹立したが、海軍創設を決断したのはそれより前の同年1月8日、中国共産党中央政治局会議でのことだった。その時すでに毛沢東らは中国海軍建設に敵である国民党軍の力を利用することを考えていた。
毛沢東と2時間会談
ヨシハラ氏はその背景として当時の国民党軍の混乱振りを詳述している。たとえば46年6月1日から49年1月31日までの間に、国民党軍は500万人近い兵を失い、うち4分の3は共産党に投降したという。49年2月にはフリゲート艦「黄安」と巡洋艦「重慶」の乗組員が相次いで蒋介石に反乱を起こした。重慶は中華民国軍の旗艦であり国民党軍の誇りだった。その反乱に国民党は大打撃を受け、毛沢東は喜んだ。
毛は3月末、重慶の将兵と乗員に向けて「あなた方はやがて(人民解放軍の)海軍建設に参加する先駆者となる」と祝福の電報を送った。
中国共産党の海軍立ち上げの責務を任されたのは39歳の陸軍将校、張愛萍(ちょうあいへい)だった。張は中等教育を受けただけの15歳で革命に身を投じた。「長征」の行軍にも参加した。だが海に関してはおよそ無知だった。その彼に求められていたのは、PLAの海軍(PLAN)を立ち上げるための人材確保だった。チャンスはすぐにやってきた。
49年4月25日、南京近郊の揚子江に展開していた国民党軍の海防第2艦隊で反乱が起きたのだ。反乱軍はその先どうするのか。張は国民党軍の将校や人員を味方に取り込むべく、第2艦隊司令官の林遵少将の説得に乗り出した。
林は国民党政権ではエリート一族の出だった。父親はそれより半世紀前の日清戦争に参戦した北洋艦隊の将校であり、林自身は煙台海軍学堂を卒業後、英国の王立海軍大学で学んだ。張は直接間接に、林に対して、➀共産党の大義、➁共産党こそ中国の遠い将来を見据えていること、➂報復に関心はないことを伝えた。林の信頼を得るために張は反乱軍への給料の支払いと配給を復活させた。
結局、林は共産党側の熱心な説得を受け入れ第2艦隊を共産党軍に引き渡した。共産党は林に報いて彼を華東海軍の副司令官、東海艦隊の副司令官、軍事科学院の軍事学主任などに昇進させた。
国民党軍幹部の取り込みはPLA海軍建設に欠かせなかったが、都会育ちで学歴のある国民党の軍人たちと、多くが農民出身で教育も不十分な共産党の軍人たちの和解は容易ではなかった。相互不信が拭い切れない中、49年8月、中国共産党指導部が動き出した。朱徳、劉少奇、聶栄臻、周恩来の4人が林をはじめとする元国民党軍の大物4名を招いたのだ。さらに彼らは中南海で毛沢東と2時間会談した。
毛は元国民党海軍将校たちは国家の宝だと言い切った。最高指導者、毛がわざわざ元国民党の幹部らと会ったのである。こうした努力を重ねる彼らの姿を知るにつけ、どんな時にも実利に基づいて行動する中国共産党の手法には感心するばかりだ。
「弱者は強者に勝る」
毛との会談によって共産党軍と元国民党軍の相互不信は薄らいだかもしれない。それでもかつて内戦で殺し合った両軍の和解は簡単ではないだろう。事実、張は自分の部下が元国民党関係者の政治的信頼性を疑い、共有すべき情報を渡していないことに気づいた。張は直ちに情報共有を指示し、さらに元国民党軍人らの生活水準を維持することにこだわった。中国全体が貧しい中で、元国民党軍人らには白米など高品質の主食を振り分け、共産党幹部らは玄米などを食べた。又、元国民党軍人には給料を遅滞なく払い、現金不足のときは現物支給でしのいだ。
手厚い待遇を受けて元国民党軍人たちは中国共産党軍に協力し、共産党が必要とする海軍に関するおよそ全ての情報や技術を伝授した。その後、彼らはどうなったのだろう。
林遵少将の事例に見られるように、各人が時の経過と共に出世したのは事実が示すとおりだ。だが、ヨシハラ氏は「払拭できない疑問」として共産党軍と国民党軍の和解について「内戦を過去のものにしようとする取り組みは物語以上にはるかに議論を呼んだ可能性がある」と書いている。実際、元国民党軍人を共産党軍に引き入れ、PLA海軍初代司令官となった張の在任期間(49年4月~51年2月)に、毛沢東が元国民党軍を含む人民に対してイデオロギー戦を開始し、それを次第に強化したこと、朝鮮戦争が元国民党軍の忠誠に対する疑念を強めたこと、文化大革命に至る一連の反革命運動は元国民党軍には厳しかったであろうことを指摘している。これは中国に対する認識として大事な点であろう。
だが、何と言われようとも、中国共産党は殆どゼロから海軍を立ち上げた。中国の公式な説明において中国海軍は、初期の海戦で創意工夫と熱烈な祖国愛で不利な形勢を克服し、技術的にも物理的にも圧倒的優勢な敵に勝利したと解説されている、とヨシハラ氏は指摘する。中国共産党はこの歴史的解釈を将校以下中国の軍人、国民を鼓舞し動機づけするために繰り返し彼らの意識に刷り込んできたともいう。こうして「弱者は強者に勝る」という考えが定着し、現在も中国軍に深く浸透しているというのである。彼らの大戦略について、もっと深く知らなければならないと痛感させられた書である。