「 米政権、危うい教条的正しさ 」
『週刊新潮』 2021年2月18日号
日本ルネッサンス 第938回
バイデン政権発足から約3週間、彼らが何を目指しているのかが、ようやく少し見えてきた。2月5日の「言論テレビ」でジャーナリストの木村太郎氏が指摘した。
「バイデン政権の閣僚に極左は入っていませんが、強く左に傾くと確信したのが1月26日のスーザン・ライス氏の声明です。彼女の『人種公正構想』(Racial Equity Initiative)で、そう思いました」
ライス氏は国内政策会議委員長として国内政治の全てに口出しできる。彼女は会見で、連邦政府全省が米国の全家族に対する「公正な扱い」を政策の基本に置かなければならないと語ったのである。
鍵になるのがこの「公正」という言葉だ。英語ではequityである。equityの説明は後述するとして、彼女はこう述べた。
「バイデン大統領も、公正さを高めることが(連邦政府職員)全員の仕事だと仰った。私の主張にはホワイトハウスと全省の支持がある」「この挑戦は私にとって個人的な挑戦でもある」と述べて、彼女は「私はジャマイカ移民と奴隷の子孫であり、祖父母、両親、そして私自身、アメリカン・ドリームの恩恵を受けてきた」とも語った。
だが、いま、経済・司法・社会機構における制度的人種差別と不平等が多くの米国人をアメリカン・ドリームから遠ざけていると言うのだ。
ライス氏は、「コロナウイルス禍で食べるものに事欠く黒人とヒスパニックの家族は白人家族に較べて2倍も多い」「コロナウイルスによる同様の比較では死亡率は2.8倍だ」と指摘する。米国の全ての人種が公正に扱われることで経済は活性化し、5年間で雇用は600万人、経済効果は5兆ドルに及び、しかしながら過去20年間は人種的不公正ゆえに米国は16兆ドルも失ったと強調した。
ライス演説と同じ日に、バイデン大統領は大統領令、“人種公正法”に署名した。ここでもキーワードはequityだ。木村氏は「エクイティ」こそ、民主党を特徴づけていると喝破した。
「言葉狩り」改革
「ライス氏はequity(公平、平等)を強調して、これを全ての政策の根幹に据える、全省庁の政策がそれに沿っているか、モニターしますと言いました。equityに似ているものにequalityがあります。これは人間は生まれながらにして全て平等だという意味で、アメリカの独立宣言の精神です。でも独立宣言にはequityとは書いていない。equityは結果平等という意味です」
ライス氏の主張に沿えば、「黒人は不平等に扱われているのだから、最終的にそれを是正して人工的に平等にすべきだ」ということになる。それがequityなのである。
ライス氏は民主党政治の根幹にこの「結果平等」を置く。対して2月3日の「ウォール・ストリート・ジャーナル」(WSJ)紙で、著名なコラムニストのジェイソン・ライリー氏が次のように反論した。
「ミルトン・フリードマンは、もし社会が自由よりも平等を優先すれば、その社会は自由も平等も実現できないだろう。反対に平等よりも自由を優先すれば、両方をより良く実現できるだろう、と語っている」
ライリー氏はさらに、バイデン大統領やライス氏が批判するトランプ前大統領の施策についてこう書いた。
「コロナウイルス襲来の前、トランプ政権下における黒人やヒスパニックの貧困率及び失業率は記録的に低かった」「歴史に学べば黒人が政府に求めるのは(自由な生き方の)邪魔をしないでくれということだ」
ライリー氏は多くの具体例をあげて、バイデン政権の推進する結果平等の施策が黒人たちの成功を妨げていると説く。ちなみに氏は『我々への援助を停止せよ リベラル派が黒人の成功を妨げる』などの著者で、黒人である。
人種平等を目指すバイデン政権の理想は無論、高く評価すべきだ。他方、結果平等政策は真に自由な才能の発露を妨げ、世の中を歪めてしまいかねないと危惧する。木村氏が語った。
「ライス発言は早速、東部の名門、イェール大学に波及しました。イェールはかつて人種的バランスを考えて入学者の割当制を実行していた。トランプ政権は逆差別だとして訴えていたが、バイデン政権になって司法省はその訴えを取り下げました」
民主党政権の米国は、結果平等志向を強めていくのであろう。そういえばもう一点、注目すべきことがあった。1月4日、ナンシー・ペロシ下院議長が率いる下院の規則として、性差に関わる言葉の使用を禁止する、「言葉狩り」改革を決定したことだ。
たとえば、お母さん、お父さん、お姉さん、お兄さん、息子、娘などの替わりに親、子供などとしなければならないそうだ。他国のことなのに余計なお節介かもしれないが、語彙の豊富さは感受性の豊かさや深さと密につながっている。多様な言葉をこのように選別してふるい落とすことには賛成できない。
ミャンマーが中国に近づく
バイデン政権は正しさを求めることで、教条的かつ硬直的になるのではないか。それが外交に反映されるとどうなるだろうか。ミャンマーを事例に考えてみよう。
2月1日に軍事クーデターが起こりアウンサン・スーチー氏らが自由を奪われた。ミャンマーは中国にとって戦略上、地政学的に極めて重要だ。ミャンマーを押さえれば雲南からベンガル湾にパイプラインを通し、中東の油を南シナ海を経由せずに中国に輸入できる。米国にとって、ミャンマーが中国陣営に取り込まれることはインド・太平洋、南シナ海戦略上、どうしても避けたい。
2011年にヒラリー・クリントン国務長官(当時)がミャンマーを訪れ、スーチー氏と歴史的会談を行った。翌年、オバマ氏が現役米大統領として初めてミャンマーを訪れた。米国との接近の中で、ミャンマーは中国と合意していた巨大なミッソンダムの建設を中止した。
その間中国は忍耐強く、ミャンマー政府要人、とりわけスーチー氏の支持基盤である「国民民主連盟」(NLD)の幹部らを、全額、中国持ちで招き続けた。その回数は1000回を超えると言われている。そうした中で、イスラム教徒のロヒンギャの人々への弾圧が始まった。米国とスーチー氏との関係は冷え込み、バイデン政権を試すかのように軍事クーデターが発生した。
ブリンケン国務長官は早速、厳しい制裁措置を取る姿勢を打ち出した。問題は、米国が厳しく対処すればミャンマーが一層中国に近づいてしまうことだ。それだけは避けるべきだ。
政治は「正しさ」だけで目的を達成することはできない。中国を相手にしたたかに立ち回り、ミャンマーをこちらの陣営に引き留められるか。「正しさ」の旗を掲げるバイデン政権を懸念せざるを得ない。