「 国会は一日も早い憲法改正の実現に向け国民の意思問う機会をつくるのが責務だ 」
『週刊ダイヤモンド』 2018年7月14日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1239
7月5日付の「産経新聞」が、与党は憲法改正手続きを定めた国民投票法改正案の、いまの国会での成立を断念する方針だと報じた。5日の衆議院憲法審査会で趣旨説明は行うが、実質審議には入らずに、継続審議にするという。
改正案の内容は、一昨年成立した改正公職選挙法をそのまま国民投票法に反映させるもので、これによって駅や商業施設に共通投票所が設置され、より多くの人が投票に参加し易くなる。
自公与党は、共産、社民を除く野党と、前述の共同投票所の設置に加えてテレビCMの規制なども検討することを前提に、5月時点では大筋で合意していた。それが6月27日、自公と日本維新の会、希望の党などと共に共同提出した改正案につながった。
だが、いま、枝野幸男氏の立憲民主党、玉木雄一郎氏らの国民民主党などは憲法審査会の幹事懇談会にさえ、まともに出席しない状況が続いている。こうして時間がなくなり、与党はいまの国会への提出を諦めるに至った。
背景に、憲法審査会は「全会一致」の運営が原則とされているという事情がある。立民や共産党らは、この原則を盾に、「モリ・カケ」問題などの説明が不十分だなどとの理由をつけて、審査会の開催そのものを妨げた。
結果としていまの国会では審査会は衆院ではたった1回、参議院では3回開かれたのみだ。そのうち衆院と、参院における2回の開催は理事の選任手続きのためで、憲法の内容についての議論は参院での1回だけという。なんというお粗末さか。
なぜこんなことになるのか。無論、国会議員の「やる気のなさ」が第一の原因であろう。とりわけ維新と希望を除く野党は支離滅裂である。彼らは「立憲主義」を唱えながら、憲法改正が必要だという政党が、憲法に定めたルールをきちんと守って改正案を提出し、国民の判断を問おうとすると、そのプロセス自体を阻止する。自分たちが改正をしたくないために、国民の意思を問う機会そのものを潰してしまおうとしている。
格好の道具となっているのが前述の憲法審査会だ。「全会一致」の原則を自分たちで作り、それを盾に審査会の開催に応じない。審査会さえ開かせなければ改正案の国会提出を妨げることができる。発議自体ができないわけで、国民に問うまでもなく、改正を阻止できるという計算であろう。
本当に古い話だが、私は美濃部亮吉氏の都政を思い出す。たった一人でも反対者がいたら、公共工事をはじめ、何もしないという都政だった。圧倒的多数の人々の意思であっても一人の反対者が阻止できるという極端な路線だった。いまの野党の一部と体質的に通底するものを、私は感じている。
こんな事態に陥っているのは、「憲法審査会が動かなければ、改正原案の国会提出さえできない」という誤解があるからではないか。
憲法改正のカギは、ひとりひとりの国会議員が握っているのである。改正案を上程するのは、政府ではなく、国会議員の役割である。国会法68条の2は、衆議院で100人以上、参議院で50人以上の賛成で提出できると定めている。いったん改正案が国会に提出されれば、国会法102条の6によって、憲法審査会には審査を行う責務が生じる。
憲法という国のもといを決めるのは、国民の総意である。国民ひとりひとりが日本をどのような国にしたいのかを深く考え、決めるのが、まさに民主主義の真髄であろう。
いま日本はかつてない危機に直面している。日本周辺の状況に対応するには、いまのままの日本では力不足だと感じている人は少なくない。1日も早く、憲法改正を実現するために、国民の意思を問う機会をつくるのが、国会の責務である。