「 日露関係を左右するプーチンの人柄 」
『週刊新潮』 2016年12月15日号
日本ルネッサンス 第733回
ウラジーミル・プーチンロシア大統領の来日が近い。12月15日には安倍晋三首相の地元、山口県長門市で、翌日には東京で、会談が行われる。
首脳会談に向けた最後の準備に岸田文雄外相がロシアを訪れたが、岸田氏を迎えるロシアの雰囲気は控え目に言っても厳しかった。
2日、氏はサンクトペテルブルク市で1時間50分待たされて、ようやくプーチン大統領と約30分会えた。翌日はモスクワでラブロフ外相と昼食込みで2時間40分会談したが、その後の共同記者会見でラブロフ氏は領土問題の早期解決は難しいとの見方を示している。
こうした中で安倍首相はプーチン氏との頂上会談に臨む。これまでに日本の対ロシア経済協力に関する情報は多々報じられたが、平和条約締結、北方領土返還の見通しについての確たる情報は少ない。安倍政権中枢筋でさえ、本当のところはトップ2人、安倍、プーチン両首脳しか知り得ないと語る。安倍首相の北方領土問題を含めた日露関係への「新しいアプローチ」に、プーチン大統領がどのように対応するのか。成果は文字どおり、首脳2人に全面的に委ねられている。
プーチン大統領は、他の指導者ならほぼ不可能だと言われている前向きの決断、北方領土の日本への帰属を明確にするという決断を下せるだろうか。そもそもプーチン氏とはどんな人物なのか。氏を動かす要因とは何か。氏が信じる価値とは何か。こうした事柄について、北海道大学名誉教授の木村汎氏の近著、『プーチン人間的考察』『プーチン内政的考察』(いずれも藤原書店)は、合わせて1200頁余、ロシア及びプーチン分析では他の追随を許さない。
プーチン像を、木村氏は「人誑(ひとたら)し」という言葉で鮮やかに表現した。プーチン氏は父親同様、ソ連(ロシア)の情報要員、つまりスパイとして働くべく、KGB(旧ソ連国家保安委員会)に勤めたが、チェキストと総称される彼らに叩き込まれるのは、「人間関係のプロフェッショナル」になることだと、これはプーチン氏自身が語っている。
ブッシュを釣針に
ロシアの名門紙「コメルサント」の女性記者、エレーナ・トレーグボワは、プーチン氏とは「絶対的に対立し合う立場」だったが、プーチン氏は、「彼と私があたかも同一グループに属し、同一利益を共有しているかのような気分に」させてしまうと振り返っている。
木村氏はさらにジョージ・ブッシュ前米大統領が如何に「めろめろ」にされたかも描いた。反ソ、反露主義のブッシュ氏は、大統領就任後、なかなかプーチン氏に会おうとしなかったが、2001年6月16日、とうとう会談した。そのときプーチン氏は、幼いときに母親から貰った十字架を見せて、マルクス主義の下でロシア正教の信仰が禁止されていた少年時代に、母親の計いで洗礼を受けた体験を、ブッシュ氏に静かに語ったそうだ。
ブッシュ氏は明らかに心を動かされ、次の言葉を残している。「私はこの男(プーチン)の眼をじっと見た。彼が実にストレートで信頼に足る人物であることが判った」。
英国人ジャーナリストのロックスバフ氏は、「ブッシュは、プーチンの釣針に見事に引っ掛った」と評したが、木村氏はこの人誑しイメージとは異なる別のプーチン評も紹介する。
「プーチンは自己(および家族)のサバイバルやセキュリティを何よりも重視し、この目的達成を人生の第一義にみなして行動する人間」(プーチンの公式伝記『第一人者から』の執筆者)であり、プーチンの胸深くには、「己が何が何でも・サバイバル・せねばならないという欲望が、一本の赤い糸のようになって貫いている」と、断じるのだ。
上半身裸で馬を駆ったり、釣りをする姿を、プーチン氏は好んで映像にとらせる。そこから連想されるマッチョなイメージとは正反対に、彼は「臆病すぎるほどの慎重居士」だと木村氏は見る。
従ってプーチン氏はいかなる人間をも絶対的に信頼することはない。常に複数の人間に保険をかける。状況が動いているときにはとりわけそうだ。
「小さな戦争」
そのプーチン氏が権力保持のために注意深くコントロールしてきたのが、➀ロシア国民、➁反対派諸勢力、➂プーチン側近のエリート勢だ。
➀は新聞・テレビなどのメディアを国営化し、人事をプーチン派で固め、自分に好都合な情報だけを報じることでコントロール可能だ。ちなみに、2014年段階でロシア人の情報源は60%がテレビ、インターネットは23%にとどまる。
➁は苛酷で執拗で非情な手段を用いて、命まで奪いとることで押さえる。一例としてイギリスに亡命したリトビネンコ氏に放射性物質のポロニウムを飲ませて殺害した疑いがあげられる。
最も手強いのが➂の側近による反乱、宮廷クーデターである。そのような事態が起きるとすれば、中心勢力は旧KGB関係者を含む「シロビキ」だ。万が一にも反乱の可能性があれば、プーチン氏はその芽を摘みとる。それが今年4月、関係者を驚かせた一大決定だった。プーチン氏が命じたのは国家親衛隊の創設だった。新組織は生半可なものではない。そこに配置転換された人数は40万人、ロシア正規軍の約半分に相当する規模だ。新組織の長にはプーチン氏の長年の柔道仲間で、「プーチン氏に最も献身的に尽くす人物」と評されるゾロトフという人物が選ばれた。
こうした中、今年3月に行われた世論調査では、ロシア人の82%がプーチン大統領を支持し、同じく82%がロシアは深刻な経済危機に直面していると答えた。深刻な経済危機は為政者への批判につながるのが世界の常識だが、ロシアではそうなっていない。なぜか。
ロシア人は今日の食事に困っても、ロシアという「偉大な国家」が国際社会で存在感を示し、大国の栄光を回復するなら、精神的に満足するからだと解説されている。加えて、プーチン氏は経済的困難を外敵の所為にして、対外強硬路線を取って求心力を高め、自身への支持率上昇につなげる。クリミア、シリアなどとの「小さな戦争」は、ロシア国民のナショナリズムを呼び醒ます効果を生む。米欧諸国はそれに対して対露制裁を強化する。するとプーチン氏は新たな小さな戦争を始めて国民のナショナリズムに訴える。
完全な悪循環の中にあるのがプーチン大統領である。この尋常ならざる背景を背負ったプーチン大統領が、領土問題でどれだけ日本の主張に対応できるのかと、考えざるを得ない。ラブロフ外相の硬い交渉姿勢を超える展望が、今回の会談から生まれるのか。固唾をのむ思いである。