「 原子力規制委が妨げる最先端癌治療 」
『週刊新潮』 2016年1月14日号
日本ルネッサンス 第689回
昨年12月、鹿児島県にある九州電力川内原発を取材して考えた。東日本大震災以降、原子力発電の安全基準は大幅に強化され、日本の規制基準は世界で最も厳しくなった。全原発が止められた中で先頭を切って再稼働を許された川内原発のいたる所に、原子力規制委員会のメンタリティが見てとれた。杓子定規で、合理性を欠いた、硬直した精神だと言ってよいだろうか。
広い敷地の方々に大容量の給水用ポンプ車、どこにでも大量に注水可能な放水砲、高圧発電機車、緊急用車輌や復水タンクの数々が配置され、幾つかは太い鎖で分厚いコンクリートの床につながれていた。竜巻対策であるのは明白だが、果たしてここまで必要なのかと考え込んだ。
九州電力は、川内原発再稼働に漕ぎつけるまでに40万ページもの書類を作成させられた。10万ページの書類作成はこれまでの取材で知っていたが、40万ページは初めてだ。厚さ10センチのキングファイル150冊が10万ページ、高さ15メートル、5階建の建物に相当する。15メートルの書類の柱、4本分を作成して初めて、川内原発は規制委の要求を満たし得たわけだ。
膨大な量の書類は、一体誰が審査するのか。九州電力は書類を台車に積んで何度も往復して運んだが、規制委はそれをどうしたのか。保管庫に積み上げたのか。こんな前近代的手法で原発の安全審査を行うのは、少なくとも先進国では日本だけだ。
米国では全ての応答は迅速にメールでなされる。規制委はいつでも現状をチェックできるし、事業者は疑問や質問をこれまたいつでもメールで送り、回答や指示を受けとれる。諸外国では当然の電子化ファイルが、日本ではなぜ駄目なのか。全てを紙に転写して提出させる理由は何か。規制委の手法は疑問だらけだ。
規制委は電力会社に不必要な負担を強いているだけではない。京都大学原子炉実験所の事例に見られるように、日本が世界に誇る最先端の研究も停止に追い込まれ、年間数十人規模の命を助けてきた治療がこの1年半以上、停止され続けている。規制委の不適切な規制で失われている命があるということではないか。原子炉の安全確保は当然だが、どう見ても、規制委には決定的な問題と行き過ぎがある。
人命を脅かす
たとえば彼らは、強大な権限を与えられた3条委員会としての独立性を、事業者とは話し合わずに孤立することだと誤解しているのではないか。本来規制委は、現場を1番よく知る事業者と対話し、助言し、原発及び原子力利用施設の安全性を高め命を守るために、互いに協力する立場にある。しかし、彼らは現場を無視し、見当外れの安全審査を行い、人命を脅かす結果さえ招いている。
世界の注目を集める京大の先駆的研究、中性子を使った基礎研究と、加速器駆動未臨界システムの研究の両方が規制委の壁の前で完全にストップしているのである。
中性子活用の研究のひとつが「ホウ素中性子捕捉療法」(BNCT)という癌治療である。
京大原子炉実験所・原子力基礎工学研究部門の宇根崎博信教授が語る。
「京大が最重視する社会貢献が癌治療のBNCTです。私たちは研究の傍ら週1日をBNCT治療に割き、年間40人から50人を治療し、難しい癌から救ってきました」
90年以降、京大はBNCTの臨床研究として500症例以上を扱っており、症例数及び適用範囲の広さで世界最高水準を誇る。
ちなみにBNCTでは、ホウ素を含んだ特殊な薬剤を投与し、癌細胞が薬剤を取り込んだタイミングで中性子を当てる。中性子を吸収した途端にホウ素はパンと割れ、その際の放射線(アルファ線)で癌細胞は死滅する。アルファ線の飛距離は細胞1個よりも短いため、癌細胞だけを破壊し隣接する正常細胞は傷つけない。このように正確に癌細胞だけを攻撃できるため、癌の患部と正常組織がまじり合っている悪性度の強い場合でも有効で、これまで困難だった治療が可能になった。適用範囲は当初の脳腫瘍と悪性黒色腫から、舌癌、口腔癌、耳下腺癌、肺癌、肝癌に広がり、いまや癌克服の決め手として熱く期待されている。
BNCTの成功には、原子炉を運転して作る中性子を安全に扱う原子力工学、ホウ素を含む薬剤を開発する薬学、放射線治療専門の医学の3チームによる高度の連携が欠かせない。これら全てが揃っているのは世界で京大原子炉実験所だけである。にも拘らず、BNCTを含む中性子を用いた基礎研究が規制委に止められているのだ。
世界をリード
その理由は、川内原発で感じた柔軟性と合理性を欠く規制委の杓子定規な精神にあると私は考える。規制委は2013年に商業発電用原発の規制を大幅に強化した厳しい新基準を打ち出し、これを実験・研究用原子炉にも適用した。川内原発は1号機も2号機も各々89万キロワット、対して京大の原子炉は出力5000キロワットと100ワットだ。近畿大学の研究用原子炉は出力わずか1ワット。これは豆電球と同じで、空気で十分に冷却される。ところが規制委は大規模商業発電用原子炉と同じ基準を、京大にも近畿大にも規模の違いなどお構いなしに当てはめた。地震、津波、竜巻、テロ、航空機の衝突、火災、活断層など全てを網羅した厳しい対処と、膨大な量の書類作成も求めた。
宇根崎氏ら研究者・教授は過去2年間、規制委対応に追われ、書類作りがメインの仕事となり、本来の研究は遅延遅滞が続いている。学生たちも研究用原子炉の運転が停止され学べなくなった。近畿大は窮余の策として学生を韓国水原に送り、慶熙(キョンヒ)大学の試験研究炉で学ばせている。かつて日本は、慶熙大学をはじめソウル国立大学など韓国6大学の精鋭学生約20名を毎年、京大原子炉実験所に迎え、教えていた。それがいま逆転したのだ。
BNCT同様、京大が世界をリードする加速器駆動未臨界システムの研究も止められた。同システムは放射性廃棄物に含まれる長寿命の元素でウランやプルトニウムよりも重たい厄介者、たとえばアメリシウムなどを原子炉に入れて半減期の短い元素に変える、核変換処理にも使える優れたシステムだ。宇根崎氏が語る。
「世界各国がこの次世代原子炉の研究をしています。概念設計に必要な基礎研究、実験データにおいては、京大が先駆的存在です。諸外国が猛烈に追い上げていますが、世界をリードしているのは私たちです」
宇根崎氏は、人材育成のためにも、またこの時代に、原子力研究を目指す志ある学生たちのためにも研究再開を切望している。日本の先駆的研究と、命を守るために、政府は規制委に対する監視と助言の機能を果たさなければならない。