「 南京大虐殺が世界記憶遺産へ 悔やみ切れない敗北を喫した対中戦略 」
『週刊ダイヤモンド』 2015年10月24日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1105
中国が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に世界記憶遺産として登録申請した「南京大虐殺」が、審査委員会で僅差で可決、登録された。
日本外務省は、申請却下に向けて働き掛けたが中国が申請資料を最後まで明らかにしなかったために、十分な対応が取れなかったと弁明する。
日本国政府の歴史問題に関する情報発信は歯がゆいばかりにお粗末だ。今回の悔やみ切れない敗北と、環太平洋経済連携協定(TPP)の取り組みを比べると、敗因はおのずと明らかだ。両案件はいずれも安倍晋三首相が力を注いだ、国益を懸けた闘いである。TPPは甘利明氏を担当大臣とし、全省庁の英知を結集、自民党も農家の説得をはじめ全力を注いだ。
他方、ユネスコ問題では日本の態勢はおざなりだった。主として外務省が取り組んだが、彼らが歴史問題に真正面から反論したことはほとんどない。今回も外務省は、中国の資料は完全ではないために、信頼できないという論理で反論した。だが、「南京大虐殺」は存在しなかったと、事実を否定しなければならない。南京事件に関しては優れた研究が幾つもあり、「南京大虐殺」説の否定は不可能ではない。
にもかかわらず、外務省は中国の申請の全会一致での成立を許してしまった。そのことがどれだけ深刻か、世界がどれだけ中国の宣伝戦に影響されているかを、ドイツの例で考えてみよう。
「読売新聞」編集委員の三好範英氏の『ドイツリスク「夢見る政治」が引き起こす混乱』(光文社)が貴重な教訓を教えている。ドイツに対して日本人は親近感と信頼感を抱きがちだ。しかし、特派員として通算10年をベルリンで過ごした氏は、ドイツ側が日本に抱く印象は非常に厳しいと指摘する。彼らは日本を論理的に劣った国と見なし、だからこそ、福島の事故でも脱原発ができず、歴史問題でも十分な反省ができないと考えるという。
この種の見方がまかり通る背景にドイツの対日ライバル意識があるそうだ。とりわけ1980年代以降、多くの産業分野でドイツは立ち遅れ、「日本の後塵を拝することが多くなったこと」、さらに「ナチズム、とりわけホロコースト故に、国際社会からの厳しい道義的非難にさらされてきたドイツ人が、他に(日本に)倫理的非難の対象を発見して安堵する心理」もあるという。
三好氏はドイツには西欧への親近感と東方への夢が混在していると分析する。東方への夢は「ロシアへのロマン主義」と言い換えられ、「西欧的な人権や自由、明るい合理主義や啓蒙主義と対極の、豊穣ではあるが暗部を秘めた東方世界への憧憬だ」。
ロシアへの憧れはプーチン大統領とメルケル首相の親しさにも、ロシアがウクライナからクリミア半島を奪ったときのほとんど何も対応策を取らないという甘さにも反映されている。
日本が警戒すべきことは、ドイツの東方への憧れがロシアを越えて中国にも及んでいる点だ。例えば今年3月に来日したメルケル首相は安倍首相の靖国参拝について批判的な考えを表明した。また、朝日新聞社主催の講演を引き受けたが、ドイツ外務省筋はそこには「確かに政治的な目的があった」と認めたそうだ。つまり、安倍首相に対して徹底的に批判的な朝日の側に立つことで、ドイツの安倍首相への批判を間接的に示したというのだ。
かつてドイツは日本と三国同盟を結んだが、同盟結成直前まで、日本の敵であった蒋介石の国民党軍を支援し、実際に日中戦争では中国軍をドイツ将校が指揮して日本軍を痛めつけた。
往時もいまもドイツをここまで動かし続ける中国の情報戦略に、日本は全力で対抗しなければならない。そのための予算が外務省に与えられた500億円のはずだ。アニメや食文化に関わっている場合ではないだろう。