「 明以来の中華帝国主義に備えよ 」
『週刊新潮』 2013年7月18日号
日本ルネッサンス 第566号
7月21日の参議院議員選挙を前にして、投票率が非常に低くなるとの予測が頻りである。自民一強野党多弱の情勢なら、投票しても結論は同じ、詰まらないから投票しないというのがひとつの理屈らしい。
そんなふうに考える人たちに是非勧めたい一冊がある。少し部厚いが、ロバート・D・カプランの『インド洋圏が、世界を動かす』(インターシフト)である。面白いだけでなく日本がなにを為すべきかに関して、多くのことを確認し、新たに発想する鍵となる。同書を読んで世界の動きのダイナミズムを知れば、選挙に行かない、或いは支持政党はないがアンチテーゼとして共産党に票を投ずるなどという発想が如何に的外れなものかが明確になるだろう。世界の激しい動きを把握しきれない場合、日本は本当に沈んでしまうことも手にとるように見えてくる。
世界のパワーバランスが変化し、大西洋に替わって太平洋、とりわけそのアジア側の半分の西太平洋とインド洋が世界の主舞台となった。もはやかつての影響力を保持しているとはいえない、たとえばフランスが安保理常任理事国として君臨する国連に替わって、日本、インド、中国などが大きな役割を果たす太平洋・インド洋圏諸国がより重要な地位を占める時代が到来しつつある。
そのような世界情勢の現実の下で、どの政党が日本の未来を担保し得る戦略を提示しているのか、その点を有権者として考えることが大事だ。日本の世界戦略を示し得ている政党を見極めれば、次にその党に十分な力を与えることが大事である。強くて安定した政治があって初めて、激変する世界で日本の未来を担保出来る。そんな発想で世界地図を眺めてほしい。熾烈な闘いが進行中の世界で日本が衰退し、沈没するような道は選びたくない。そう考えれば一票の重さも意義も明瞭になる。
カプランはアフリカ東海岸、中東、インド、東南アジア、中国、日本の全域をインド洋と西太平洋から見詰める。二つの大海にまたがる地域に超大国は未だ存在しない。だが、超大国の座をあからさまに目指すのが中国であり、運命的にその対抗軸に置かれているのがインドである。
マラッカ・ジレンマ
カプランは第1章の最初の項を「アメリカ後の世界」とした。インド洋と西太平洋を舞台に、多極化する21世紀の世界の主役となる中印両国の闘いの性格を、カプランは中国に関する興味深い指摘によって描き出した。15世紀の明の時代の提督、鄭和を大々的に記念する行事を中国共産党が催し始めたというのだ。
鄭和は現在の雲南省出身、父はモンゴルに帰順、イスラム教徒である。生年は1371年と推定されている。少年時代に捕らえられ去勢され、彼は宦官となる。明朝永楽帝に信任され、出世して提督に上り詰めた。15世紀初頭、彼は7度も艦隊を率いてアフリカ東海岸、中東、そして広くアジア南海諸国に遠征した。艦隊の規模は3万人に上ったという。
鄭和の実績を一言でいえば、中華思想の促進・普及である。諸国を朝貢国とし、中国を宗主国とする世界戦略に彼らを組み入れるのに大いなる力を発揮した。日本も室町時代、足利義満が明に朝貢の形で接したことがある。このことは日本の歴史上、ひとつの汚点であるが、鄭和が大活躍したのが、この時期だった。
カプランはこう書いている。
「中国がこのインド洋の探検家とその人生に新たなスポットライトを当てたのは、実質的に『過去にこの海域は中国の影響圏下にあった』ことを示すためだ」
中国の現体制が掲げる戦略目標、「中華民族の偉大なる復興の実現」はまさに、明及び清の時代に築き上げた中華圏の再現を意味していると考えてよいだろう。鄭和は太平洋を越えてインド洋まで遠征したが、現在の中国もまた、西太平洋を越えてインド洋にまたがる支配圏を築くのに躍起である。その最初の鍵が台湾制覇にある。
カプランは胡錦濤前国家主席が、「マラッカ海峡という狭く脆弱な石油の輸入路への過剰な依存状態からなんとか脱却したいという、いわゆる『マラッカ・ジレンマ』に言及しながら、自国のシーレーン(海上交通路)の脆弱性を嘆いた」と紹介する。
マラッカ・ジレンマを解決する二つの方法は海上輸送路の確保と、陸路を介してインド洋に出るための港の建設である。そのいずれも中国は実施中だ。具体策のひとつ、前述の台湾をとれば南シナ海は事実上中国の内海となり、南シナ海及びマラッカ海峡の周辺諸国は中国の影響下に入らざるを得ない。
海上輸送路確保のもうひとつの具体策がクラ地峡の開拓である。タイにあるマレー半島最狭部のクラ地峡に中国が運河建設の遠大な戦略を考えていることは繰り返し論じられてきた。建設が実現すれば、中国は南シナ海から直接インド洋に出ることが可能となり、中国の海上戦力は瞬時に強化される。パナマ運河開設が20世紀の国際情勢を大きく塗り替えたのと同様の衝撃が世界を襲うだろう。それは超大国としての地位を中国に与える結果も生み出すだろう。
「アメリカ後の世界」
マラッカ・ジレンマ解決のさらなる方法がインド洋に面する国々に、中国が自由に使える港を築くことだ。ミャンマー、バングラデシュ、スリランカ、パキスタンなどに次々に大型艦船の入港可能な深い港を、中国は中国主導で築きつつある。
カプランは、インド洋こそ、「アメリカ後の世界」を考えるうえで地球上最も興味深い大海であること、世界で海上輸送される原油の50%がインド洋の西の端のホルムズ海峡を通過し、世界の商船の50%が東の端のマラッカ海峡を通ることを指摘したうえで、「インド洋は世界で最も船の通行量が多く、重要な国際交通路となっている」と述べる。
そのインド洋を自在に操り、中華帝国の再現かと思わせるほど台頭が顕著になった要因は、中国がどの国をも上回る勢いで海軍力増強に努めたことに尽きる。カプランも指摘する。「中国は艦船の建造・獲得ラッシュの真っ最中で、次の十年間に人民解放軍の海軍は米海軍よりも多くの艦船を入手することになる」と。
このことによって米海軍の優位性が直ちに失われるわけではないが、米国一極状態は確実に色あせつつある。この潮流の変化を反映して米国は中国と競いながらも多層的な協力関係を進めていかざるを得ない。
日本が置かれているのはこうした国際情勢である。その中で日本が生き残るためにすべきことは多い。一連の極めて重要な課題に責任ある考え方を示しているのはどの政党か。カプランの書を読みつつ考えれば、思考の世界が広がるだろう。各党の真価もより鮮やかに判断出来、投票への動機も高まるはずだ。