「 人材を多数輩出した会津藩 歴史と価値観を伝えた教育 」
『週刊ダイヤモンド』 2012年11月3日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 959
今年書き進めてきた著作の一つが、会津人の物語だ。苛酷な戊辰の役を戦った会津人の群像の足跡を辿れば、自ずと心は粛然となる。賊軍とされ死よりも辛かったであろう人生を、なぜ、彼らはあのように私心なく公と大義のために生きることができたのか。
答えが教育にあるのは明らかで、会津教育の神髄を形にしたのが藩祖・保科正之だといえる。正之は徳川二代将軍秀忠の側室の子で、秀忠の正室、お江(信長の妹のお市・浅井長政の三女)に知られると命も危ないとして、その誕生は極秘にされた。元武田家の家臣、信州高遠藩の藩主・保科正光が彼を養子とし育てた。正之はこのことを忘れず、徳川家より晴れて「松平」の姓を与えられた後も、生涯保科姓を通した。
正之は、上に立つ者の責任が領民を守ることだと心得、「社倉(しゃそう)」、凶作などに備えて領民救済のコメや金を蓄えておく制度を創った。また儒学者や神道学者、算法暦法家などを重用、学問を奨励し、武士と庶民の教育を目的とした「稽古堂」を創設した。身分を超えて遍(あまね)く教育を施すこの学校は、全国で最も早い1664(寛文4)年の創建だ。稽古堂はその後、庶民の子供のための町講所と、藩士子弟のための武芸を加えた郭内講所、さらに日新館へと発展する。会津藩の教育重視は、日新館がお城に隣接する80万坪の土地を与えられていたことからも見て取れる。
家庭教育も徹底された。一例が10歳で日新館に入学する前の幼年教育だ。
「幼年者心得之廉書(かどがき)」一七条が各家庭に配布され、男子は六歳になったら近所の子弟たちで組織する「什(じゅう)」と呼ばれた班の一員となり、集団生活を学んだ。家庭教育では補い切れない長幼の序や礼儀、友情など社会人の基本を子供同士の交わりの中で学ばせる。
子供たちは午前中は家庭で親の言いつけを聞き、午後に集まるのを日課とした。集まる場所は各家庭の持ち回りである。子供たちはまず、礼に適った挨拶を交わす。言葉づかい、挙措、すべてが学びだ。正しい姿勢、正しい言葉づかい、正しい行いを自然の呼吸さながらに基本として身に付けさせる。全員正座して武士の心得「什の掟」を確認する。
内容は嘘、卑怯な振る舞い、弱い者いじめなどを厳しく戒めるもので、良識と常識そのものだ。こうした価値観を繰り返し言葉で表現させて、その子の血となし、肉となす。
こうした藩の教育と家庭教育が重なって、会津藩の人材が輩出されたのだが、家庭教育は具体的にどんなものだったのか。山川家の例を見てみよう。
山川家は保科家に代々仕え、幕末、会津藩の財政担当家老職にあった。同家の長男に嫁いだのが艶(えん)だった。彼女は一二人の子を産み、七人を育てた。
長女は結婚して一子をもうけ離婚、後に女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)の舎監となり、教育者として活躍した。
長男は西南戦争の後除隊し、東京高等師範学校、女子高等師範学校の校長を務め、貴族院議員となった。後年彼は会津藩の汚名返上に力を注ぎ、『京都守護職始末』『会津戊辰戦争史』などを編纂した。
三女は権掌侍として昭憲皇太后に仕え、フランス語通訳を務めた。
次男の山川健次郎は一五歳で会津戦争敗戦を迎え、米国に留学し、学者となって東大総長を務めた。
末娘(捨松)は日本女子初の海外留学生となり、後、大山巌と結婚、日本外交の一翼を担い、後年、日本初の看護婦学校の設立に寄与する。
一つの家庭がこれほどの人材を生み出した。母、艶の教育に大いなる関心を抱くが、それはひたすら日本人の物語を読み聞かせることだった。子供、下働きの者たちまで集めて、神話や偉人伝、故郷の物語を毎日、読み聞かせた。足元の歴史を教え、日本の価値観を十分に伝える教育こそ鍵である。