「 温首相来日、中国の微笑を信じるな 」
『週刊新潮』 2011年5月26日号
日本ルネッサンス 第461回
中国の温家宝首相が今月21日から来日し、東日本大震災の現地を視察するという。2008年1月、中国の大群衆が大雪のため旧正月に故郷に戻れなかったとき、或いは同年5月、四川大地震が起きたとき、温首相はいち早く現地に赴き、民衆の苦難に深い同情を表明して、混乱をおさえた。
そのときと似たような同情溢れる目差しで温首相は日本の被災地を訪れるだろう。わずか8ヵ月前の昨年9月22日、ニューヨークで、尖閣諸島周辺領海を侵犯してわが国海上保安庁の巡視船に体当たりした髢ゥ晋漁(みんしんりょう)の船長の「即時・無条件」釈放を要求し、「釈放しなければ、中国はさらなる対抗措置を取る。すべての責任は日本側が負わなければならない」と菅政権を恫喝したあの表情とは打って変わった親切そうな表情を見せるに違いない。
中国は再び微笑外交に転じたのだ。背景にはユーラシア大陸で展開される国際情勢の大変化がある。
米国とパキスタンが血眼で探していたはずのテロリストのリーダー、オサマ・ビンラディンがパキスタンの首都イスラマバードの中心部から120キロのアボッタバッドの潜伏先で、米特殊部隊、SEALsの単独作戦によって殺害された事件は、米パ関係に深い傷を残した。
パキスタンの著名な論客、サイリル・アルメイダ氏は「政府がビンラディンの潜伏先を知らなかったとしたら、わが国は国家の体をなしておらず、知っていたら、我々はごろつき者国家だ」として、「しかし、彼らが知らなかったなどと、誰が信じるだろうか」と、書いた。
パキスタン政府は知って、匿っていたのか、だとしたら、何を得ようとしていたのか、我々とアルカイーダには共通点もない、として、氏は現時点ではすべてが不明だと書いた。
しかし、はっきりしたのは、米パ関係が史上最悪といってよいほどに悪化したことだ。
パキスタンへの肩入れ
79年、ソ連がアフガニスタンを侵攻すると、米国は対抗してパキスタンに軍事援助を実施。当時米国はムジャヒディンもタリバンも援助した。ソ連は10年でアフガンから撤退し、米国の対パ援助も削減された。90年、パキスタンの核開発計画が明らかになると米国は従来の方針を反転させて対パ経済制裁に踏み切った。
反対に中国はパキスタンへの肩入れを強め、その核開発も主導した。98年5月にはパキスタンの核実験を代行し、彼らの核保有に道を開いた。
ところが01年9月11日のテロ攻撃で米パ関係はまたもや大きく動く。パキスタンは対米協力に踏み込み、米国の軍事、経済援助は増大した。
そしていま、米国は単独でビンラディンを殺害。パキスタン側には、90年に続く2度目の仕打ちとの見方があるが、わからないわけではない。以降、米パ両国は関係修復にかなり苦労するだろう。
日本は、しかし、この問題を米パ二国間の枠組みでとらえずに、中国、ロシア、インドを含むユーラシア大陸の力関係がどう変化するかを大きな枠組みの中で見ていくことが大事である。国家基本問題研究所の田久保忠衛氏は、まず、パキスタンが中国に接近する可能性を念頭に置くべきだと指摘する。
中国は10年前からパキスタン南西部のバルチスタン州グワダル港の整備に乗り出し、資金の80%強を援助した。中国の国内統治に欠かせない経済成長、それを支える石油はペルシャ湾からホルムズ海峡を通って運ばれる。同港は中東やアフリカで調達するエネルギーを中国に運ぶ道の要衝となり、対インド軍事包囲網、「真珠の首飾り作戦」の要ともなる。
対して米国はインドに接近中だ。06年3月にはブッシュ大統領がインドを訪れ、戦略的パートナーと呼んだ。インドの核保有を認めたうえで原子力開発への技術協力を約束した。米国は、核兵器不拡散条約(NPT)に加盟せずに核を保有したインドは容認したが、同じくNPTに参加せず、核を保有したパキスタンには核関連技術の提供を拒否した。米国の判断には核技術を北朝鮮などに拡散させてきたパキスタンに較べて、インドは一度も核技術を他国に拡散させたことがないという認識もあったであろう。要は、米国はパキスタンよりもインドに信を置いたのだ。
この傾向は2010年11月のオバマ大統領の訪印でさらに強まった。インド国会でオバマ大統領は、同国の国連安全保障理事会常任理事国入りを支持すると明言、他方、インドは米国からC17軍用輸送機や軍用機用エンジンなど、約100億ドルの新規購入を表明した。
中国共産党が抱く危機感
米印間の軍事協力は05年から始まっており、インドは米国との緊密な関係構築を進めてきたが、パキスタンのタリバン化を恐れるいま、彼らの対米接近は加速すると見てよいだろう。田久保氏が指摘した。
「インドのユーラシアにおける位置は、年来のインドのロシア関係の実績を考えれば、とりわけ重要です。ユーラシア大陸でインドとロシアが結び、それに米国が加わるとどうなるか。中国包囲の基本軸が出来上がります」
ここに現在、新たな要素として中東のジャスミン革命が加わった。ユーラシアや中国情勢にも大きな影響を与えることは避けられない。
国民の連帯を促す新メディアに支えられたジャスミン革命は、中東諸国の国内事情が異なるために一般論で括ることは出来ない。それでも独裁政権を倒し、民主主義への移行を求める国民の声が具体化しつつあるのも確かだ。これこそ中国が最も恐れる現象である。
中国ではいまや、年間20万~30万件の暴動が発生する。中国共産党が抱く尋常ならざる危機感は今年の予算措置からも明らかだ。国内の治安維持の予算、つまり武装警察、公安、民兵などの予算の総額は軍事費を上回る6,244億元(約7兆8,000億円)である。軍事費よりも莫大な予算で国民を監視し抑圧しなければならないほど、国内情勢が不安定なのである。
5月13日、米国下院も公聴会を開いて、中国の人権弾圧が89年の天安門事件以来、最悪であると非難した。
人間の心を完全に抑圧しきることは出来ない。それでも中国共産党は強硬な弾圧政策で反政府活動を抑え込もうとする。反対に国際社会に対しては、 中国包囲網は必要ないというかのように、微笑外交を展開する。だからこそ、日本は中国のこの偽りのソフト路線の真意を読み誤ってはならないのである。
菅直人首相以下、松本剛明外相らはこうした枠組みの中で日本の大戦略を考えるべきだ。国益を守る立場にある自身の責任の重さを自覚し、中国の微笑に取り込まれたり、心を許したりしてはならない。