「 日本の戦略的方向性を知る為に 」
『週刊新潮』 2010年12月23日号
日本ルネッサンス 第441回
2010年の日本は鳩山由紀夫、菅直人両首相の下で想像を絶する迷走を重ねた。仙谷由人官房長官は迷走を抑制するどころか、暴走を促す要素になった。日本を愛しているとは思えない人々が中枢を占める民主党政権の出現で日本国の根幹が急速に溶け始めたと感じた一年だった。
2011年を日本再生の年にするには何をすべきか、『証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』(文藝春秋)が考えるきっかけになる。1960年の安保闘争から70年の安保闘争まで、左翼的思想で満ちていた日本で孤高の闘いを続けた福田恆存と三島由紀夫はたった一度、『論争ジャーナル』という雑誌で対談した。本書はその振り返りから始まる。福田と三島を語るのは両氏の側近くにいた佐藤松男氏と持丸博氏だ。佐藤氏は70年、福田を顧問とする日本学生文化会議を結成した。持丸氏は68年に三島と「楯の会」を結成したが翌年10月に退会、三島の割腹は70年11月である。
三島の死から40年の今年、多くの三島論が展開された。三島と対比する形で福田論も展開された。その中で、持丸、佐藤両氏が論じた本書は抜群に面白い。
戦後日本の在り方への危機感は三島と福田に共通していた。三島は昭和44年2月号の『論争ジャーナル』で「反革命宣言」を発表したが、それは、「日本はもうどうにもならない状況に来ている。ここで本当に革命的状況が起きるかもしれない。だから自分たちは反革命のために起ち上がる」という主旨だった。共産政権誕生の可能性に対する断固たる反対である。
同じ頃、福田も「サンケイ新聞」(現在は産経新聞)に「滅びゆく日本」を書いた。敗戦以来20年余り、「日本は左翼の思うつぼにはまってきた。五年あるいは十年後には本当に革命が起きてしまうかもしれない」というもので、こんな国になった理由を福田は、「戦後になって自分たちの歴史、過去を否定したために国家や民族の連帯感や共同体意識というものがなくなった」ゆえだと喝破した。
「自分一人」の気概
両者の危惧は現在の日本で現実になった。菅首相、仙谷長官、岡崎トミ子国家公安委員長ら皆、実態としての社会党員である。千葉景子氏は落選後も法務大臣を務め、いま「検察の在り方検討会議」の座長として、日本の司法の基盤を変えつつある。三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ。
そんな日本を三島はこう論じた。「私は昭和が二十年でぷっつり切れている。それ以降はもう昭和とは思っていない」。
佐藤氏は、大熊信行が『日本の虚妄|戦後民主主義批判』の序文で右の三島発言に触れ、米国が日本に打ち込んだ2本の杭を指摘したと紹介する。杭は「日本国憲法」と「日米安保条約」である。左翼進歩派は前者に、保守派は後者にしがみつくが、双方を打破しない限り、日本の真の独立は回復出来ないという、大熊の主張はもっともだ。
日本は如何にして杭を抜いて真の独立を回復するのか。持丸氏は、三島の楯の会への言葉を引いた。
吉田松陰は非常に孤立し、自分一人しかいないと感じ始めるが、そう思った瞬間から明治維新は動き出した。自分一人しか恃むものはいないというこの気概こそ大事で、その有無が楯の会と左翼大衆運動との違いだと三島は強調したという。
片や佐藤氏も、福田の言葉を紹介する。「国家や民族が、自分を全然支持してくれないかもしれない。それでもいいという自覚が大切である」「自分一人で立って行ける人間」「『俺は味方は要らない』という人間だけがひとつの目的のために集団を作ること」だと福田は説いた。
日本の政治史を振り返るとき、「自分一人」の気概をもっていた政治家として思い浮かぶのは、岸信介だ。気概を失った日本の現状を、福田や三島が生きていたら、どう考えるか。佐藤、持丸両氏はその観点から日米安保論、憲法論などで保守に対しても厳しい論を戦わせて興味深い。だが、両氏はひたすら米国を論ずるが、中国には全く言及しない。
両氏の論から抜け落ちたその点を補う意味で、楊海英氏の『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店)が役に立つだろう。
中国を幻想なしにとらえる視点と十分な備えのみが、日本の命運を担保するいま、私たちは中国人と中国を知っておかねばならない。本書は、日本の約3倍の広さの内モンゴル自治区での戦後60余年間がどんな歳月だったのかを、14人のモンゴル人が語ったものだ。
「宿命として愛す」
日本は昭和7(1932)年に満州国を建設し、内モンゴルの東部地域を編入、各地に教育機関をつくり、モンゴルの知識人多数を育成した。しかし、敗戦で日本が撤退し、そこに生じた権力の真空状態に中国共産党が侵出した。1949年に成立した中華人民共和国は「モンゴル人を植民地から解放した」と宣言し、内モンゴル自治区を定めた。自治区のモンゴル人は80万人、入植者の漢人は500万人に膨張し、モンゴル人は圧倒的少数派に転落した。
以降、彼らは漢人に迫害され続けて現在に至る。上下2巻の本書は、現在も進行中の虐殺と弾圧の鮮烈な記録である。凄まじい虐殺を伴う文化大革命は内モンゴルから始まった。そこには「北部辺疆に住む『過去に対日協力の前科をもつ』モンゴル人たちを粛清して、国境防衛を固めてから、中国全土の文化大革命に専念するため」という明確な戦略があった。
モンゴル人大虐殺を正当化する漢人の理論的根拠は、中国共産党に潜り込んだ「牛の毛の如く無数にいるスパイ」を粛清するための政治キャンペーン、整風運動だったという。中国人民解放軍は50種類以上の拷問を、モンゴル人に実施したが、その実態は激しい拷問を生き抜いた人々の証言や、頭蓋骨に数本の釘が打ち込まれていたり、あらゆる凌辱の痕跡を残している遺体からも明らかになったことが本書に記されている。モンゴル人の民族自決運動は殺戮によって葬り去られた。そのプロセスを明らかにした本書は、中国幻想に染まり続ける日本人に漢民族の実相を突きつけている。
日本に大きな影響を及ぼす米国や中国の実態について考えるとき、私は穏やかな文明を育んできた日本を慈しまずにはいられない。私の脳裡には「宿命として愛す」という福田恆存の言葉がよぎる。両親を愛するのはそれが自分の父親であり母親であるからだ。日本を愛するのも同様だ。愛国心は日本国の優劣ゆえではなく自然の定めた摂理であり、愛国心の根拠は宿命観に置くべきだと語った福田の言葉が素直に私の心深くに浸透していくのだ。