「 東シナ海で決まる民主党外交の浮沈 」
『週刊新潮』 2010年9月30日号
日本ルネッサンス 第429回
「日本が船長を即時無条件釈放しないなら、強い報復措置をとる。その結果は全て日本側が負う」
台湾や周辺諸国に向けられてきた恫喝の言葉がいま、日本に突きつけられている。右の警告は9月19日、中国外務省の王光亜次官が丹羽宇一郎駐中国大使に電話で伝えたものだ。
尖閣諸島周辺の領海を侵犯した中国漁船を日本政府が拿捕し、船長を逮捕した9月7日以降、中国側は畳みかけるように対日攻勢を強めてきた。11日には中国は東シナ海のガス田条約締結交渉の延期を発表し、その直後に、ガス田「白樺」の開発を最終段階に進める動きをとった。16日までに掘削用ドリルと思われる機材を運んだことが確認された。
9月19日、冒頭で触れたように「報復措置」を日本側に通告するとともに、中国中央テレビは、中国外務省が19日までに①日中間の閣僚級、省庁間の交流停止②航空路線の増便をめぐる航空交渉の中止③日本への中国観光団の規模縮小④石炭関係総合会議の延期--などの報復措置をとったことを明らかにした。
「毎日新聞」の浦松丈二記者は9月20日付朝刊で、中国がオバマ政権に尖閣諸島への日米安保条約の適用に直接言及しないように度々働きかけてきたことを、北京外交筋の話として伝えた。領海侵犯事件発生以来の中国側の対日攻撃は頻度においても、外相より格上の戴秉国国務委員が直接乗り出して丹羽大使に深夜の抗議をするという質においても、尋常ではない。東シナ海に関して、南シナ海同様、実効支配を打ち立てたいとの中国政府の戦略目標が見てとれる。普天間問題で停滞する日米関係の現状は、東シナ海や尖閣諸島周辺の軍事的空白を招く要因であり、中国にとっては一気呵成に攻める好機である。
中華帝国的版図
日本政府はこの際、中国外交の基本型を心に刻んでおくことだ。尖閣諸島は日本固有の領土であり、東シナ海は国連海洋法条約に従えば、中間線をもって折半するのが常識だ。にも拘らず、自国の領土領海だと主張して「報復」を持ち出す。
中国のこの理不尽な対応はどんな理屈や考えによるものなのか。 答えは、何世紀にもわたって中国が周辺諸国と切り結んできた歴史を見れば明らかだ。チベットを例にとってみよう。
元々チベットは、自治が基本の「藩部」という位置づけにあり、中国と対等の同盟国関係にあった。中国も対等を認めてきた。たとえば18世紀中葉の清朝乾隆帝のとき、チベットの指導者、パンチェンラマに対等の相手としての礼を尽している。
乾隆帝70歳の誕生日の慶賀の席で、パンチェンラマは乾隆帝と同じ高さの台に置かれた全く同じ椅子に坐り、一段下に控えた朝鮮使節を引見した。朝鮮使節は乾隆帝に対するのと同様にパンチェンラマにも3回の叩頭(こうとう)を以て臣下の礼をとっている。中国とチベットが対等であり、両国が同盟関係にあったことが窺われる。だが、中国は後にそれを反転させた。新しい華夷秩序の理論を構築し、自らをチベットの統治者と位置づけたのだ。
重要なことは、中国の主張や掲げる理論と、現実が、全く合致しないことだ。だが、彼らは一切気にしない。彼らは事実とは無関係の中華式世界秩序を、言葉によって創り出すのである。その言葉に従って、世界秩序が形成されなければならないと考え、嘘や謀略を駆使して突進するのである。右の事実は佛教大学非常勤講師の手塚利彰氏が明らかにし、10月出版予定の『中国はなぜ「軍拡」「膨張」「恫喝」をやめないのか--その歴史的構造を解明する』(文藝春秋)に納められている。こうしてみると、いま、中国がチベットを中国の「核心的利益」と位置づけ、如何なる外国の介入も、独立も許さないと主張することの不条理に気づかされる。
南シナ海も同じである。中国は1992年に南シナ海の西沙、南沙、東沙、中沙諸島の全てを自国領だと宣言した。事実とかけ離れた中国領有権の主張は、同年に米国がフィリピンに保有していた大規模な海軍、空軍の両基地を閉鎖し、撤退したその軍事的空白の中で展開された。ASEAN諸国は怒ったが、中国は力を誇示して、或いは実際に軍事力を行使して、有無を言わさない。
中国外交のこの手法は現在も変わらない。基本的型として、彼らは史実も現実も無視し、中華帝国的版図を宣言する。漁民或いは漁民を装った軍人を、中国領だと主張する島々や海に進出させる。元々の領有権を保有する国々が船を拿捕したり漁民を捕えると、それを口実に軍事力を背景にして相手を屈服させるのだ。
一ミリも譲らない決意
こうして中国は95年初頭までに南沙諸島の実効支配に取りかかった。現在、南シナ海、特に西沙諸島周辺海域には中国海軍の軍艦が常駐し、「銃撃」も辞さない構えをとり続けている。
南シナ海の現実から東シナ海の近未来図を読み取ることができる。不条理な理屈で日本を巻き込み、わが国の海域で展開されるこの闘いは、13億の民を養うための熾烈な戦いであり、その戦いに勝つことなしには生き残ることさえ出来ない中国共産党の命運をかけた大勝負なのだ。民主党はその中国政府の意図を冷静かつ正確に見極めることだ。
たとえば、中国政府の厳しい対日措置は中国国内の反日世論を沈静化させるためだというような見方に過度に傾くのは危険である。日本人の感じ方や価値観で中国外交を見ると、必ず間違う。
自民党時代にこんなことがあった。交渉が進展しなかったとき、所管大臣の故中川昭一氏が日本側も東シナ海の試掘に入ると宣言し、帝国石油に試掘権を与えた。だが、後継大臣の二階俊博氏は方針を変更して試掘権の行使を否定した。当時流布されたのは、「とりわけ親中派の二階氏が担当大臣になった。中国側が親中派の面子をつぶすはずはない。むしろ、強硬派だった前任者の時よりも日本に有利な解決法を示すはずだ」という希望的観測だった。
周知のように事実は反対方向に動いた。根拠なき楽観は自滅に通ずる。日本外交はさらに追い込まれて、現在に至る。
国益をかけた交渉の場に、個人的感情や希望的観測は厳に戒めなければならない。民主党外交は、従来の日本政府の主権意識なき外交を繰り返してはならない。これまでの負の遺産の中で、対中外交は非常に難しい局面にある。
だが、いま、中国が一気呵成の攻勢に出ているのは、明らかに民主党政権の戦略と能力を疑っているからだ。民主党は兎も角も、自民党政権が出来なかった船長逮捕に踏み切った。ここからが重要である。日本政府として、領土領海に関しては一ミリも譲らない決意を静かに、しかし断固として示すことだ。