『週刊ダイヤモンド』2008年4月12日号
新世紀の風をおこすオピニオン縦横無尽735
『週刊新潮』 2007年6月21日号
日本ルネッサンス 第268回
5月30日から6月9日まで、台湾の李登輝前総統が日本を訪れた。後藤新平生誕150年を記念して創設された後藤新平賞の受賞のためである。6月1日に六本木の国際文化会館で行われた授賞式は、立見の人が出る盛況だった。その後、曽文恵夫人とお孫さんらを伴って芭蕉の奥の細道の一部を歩き帰京、都内での講演には、これまた1,4000名近くが集まった。日本滞在最後の夜の李前総統主催の答礼の宴でも一連の行事は終わらず、急遽、離日当日に日本外国特派員協会で記者会見が行われ、300名を越える特派員らが集まった。
李前総統の言葉は日本人の心に深く浸透する。前総統が告げているのは世界やアジア情勢の分析にとどまらず、日本人とはどのような民族であったか、日本とはどんな国家であったかという、私たちの魂に直接つながる内容だからである。李前総統が私たちに語りかけるのは日本と日本人が失って久しい価値観であり、日本人が疾うの昔に置き去りにしてきた価値観を、いまもたしかに生きているのが李前総統である。
1923年1月15日生まれの氏は現在84歳。日本統治下の台湾で生まれ、22歳まで日本人として生きた。そのことについて氏は、日本人であったこと、日本文化の下で基本的な教育と教養を身につけたことを、〝心から感謝〟していると強調した。
氏を日本の旧制中学、旧制高校に通わせたのが、父親の李金龍氏、警察学校出身の官吏だった。母の名は江錦。李前総統と兄の登欽氏への両親の慈しみの深さは、登欽氏の死に、どのように向き合ったかという事例からも窺える。
李登欽氏は芸術家肌の多芸多才の人だった。オルガンやヴァイオリンをよくした氏は、帝国陸軍の第一期の志願兵だ。だが、マニラ戦で死亡、靖国神社には岩里武則名で祭られている。
兄と祀ってくれた靖国神社
李前総統は、死に際して登欽氏はたしかに台北の自宅に戻ってきたと、次のように語る。
「兄貴が戦死したと思われる丁度そのとき、兄貴は自宅に帰ってきたのですよ。使用人が、兄貴が血まみれになって帰ってきた姿を見たと言っていた。兄の魂が帰ってきた。僕はそう思ったけれど、親父は違った。12年前に96歳で亡くなりましたが、親父は死ぬまで、兄貴の戦死を信じなかった。だから、墓も作らない。親父の気持ちを思えば、僕が兄貴の墓を作ることは出来ないでしょう」
亡父の気持を尊重して兄の死を前提とする行事もお墓を作ることも控えてきた。その李前総統にとって兄の霊が靖国神社に祭られていたことを知ったのは心の安らぎだったという。
「前回の22年前の訪日のときには、兄貴が靖国にいることを知らなかった。今回はじめて、62年振りに靖国神社で兄貴に会って、兄貴の霊の前に深々と頭を垂れ、冥福を祈ることが出来た。私としても、残り少ない一生のなかで、やるべきことをやりましたという気持です。人間として、有難く、深く感謝しています」と李前総統は涙を見せる。
中国が目の敵にする靖国神社については、「わが家で出来なかったことを、よくやってくれた。兄の魂を祭り、ここでお祈りしてくれていたことを、私は感謝しなければならないと思っております」と繰り返す。
李前総統は台北の旧制淡水中学から旧制台北高校に学んだが、7日の講演会には、台北高校の同級生ら約30人も集った。彼らは「あの頃はいつも議論していた」と懐かしむ。
「人間とは何か、死とは何か、人生の目的は何か」など、実用につながらないことばかり議論していたという。李前総統も振りかえった。
「その頃読んだ書物は数限りないです。特に私の心を揺さぶったのは、鈴木大拙や西田幾多郎、倉田百三、夏目漱石、阿部次郎、和辻哲郎をはじめとする〝人間の内面を深く省察する〟書物でした」
やがてカント、ヘーゲル、カーライル等を経て、李前総統は新渡戸稲造の『武士道』に出会った。
「青春時代の魂の遍歴に、最も大きな影響を与えた本を三冊あげるとすれば、ゲーテの『ファウスト』、倉田百三の『出家とその弟子』、カーライルの『衣装哲学』」と語る李前総統の、泉のように溢れ出す人間的な魅力に接するとき、私は、教養を深め人格を磨くことを基本にした旧制中学、旧制高校の教育のすばらしさを、他の誰からよりもリアルに実感する。
「僕はいつも、人間とは何か、死とは何かを考えてすごしました。少年時代から、自分は一体何者かと問いつづけていたのです」と、機嫌のよいしっかりした声。
「漱石の『こころ』、西田幾太郎の『善の研究』にどれだけ、感化を受けたか。こうした書物が日本人の教養の基本だった。そのおかげで、私はいまようやく、『私は、私でない私』であると、実感するところに辿り着きました」
「僕は日本の骨董品」
「私は、私でない私」をどのように説明すれば、正しく李前総統の思いを伝えることになるのか、正直に言って、私には分からない。けれど、かつて伺ったこんな話を想い出す。
「人間は誰しも、自分を肯定する強烈な自我がある。同時に自己を否定する激しい想いもある。自己肯定と自己否定。この過度な自意識から脱却して、自己中心から他者中心、社会中心に、心を切り替えなければならない。クリスチャンとして言えば、神は人の心の中に在る、深い愛によって人間を受けとめ許してくれる神は心の中に在る。そのことを知れば、私はもはや、自我の強い私ではなくなるのです」
それがどんな宗教であろうとも、社会の指導者たる者が宗教を持つことこそ重要だと説く李前総統。氏が心おきなくカントを語り、カーライを語り、西田哲学を語った夜は瞬く間にすぎていった。滞在中に李登輝前総統が見せた姿のひとつが鮮やかによみがえる。旧制台北高校の同級生と揃いのハッピを着て学生帽を被り、校歌を歌った姿である。一番から四番まで、手で大きく拍子をとりながら歌う姿は、日本と台湾をつなぐ本来の絆の深さと親密さを雄弁に物語っていた。
「なぜ、日本にはこのように多くの友人が私を待っていてくれるのか。なぜ、李登輝は日本で歓迎されるのか。それは僕が骨董品だからだよ。そうだ僕は、日本の骨董品だなぁ」と破顔一笑の氏。
李前総統は今回歩けなかった奥の細道の残りの道を、来年また、歩きたいと語った。来年といわず、いつでも、自由に、芭蕉の道を楽しみ、靖国神社での兄上との静かな語らいの時間を持ってほしいものだ。
今回の訪日を可能にしたのは安倍晋三首相の決断であり私はそれを高く評価する。だが、日米の政治家たちは、これが当たり前なのだということを深く肝に銘じるべきなのだ。
『週刊新潮』 ’06年8月31日号
日本ルネッサンス 第228回
小泉純一郎首相の8月15日靖国参拝は過半の国民の意思を反映したもので、明らかに成功だった。8・15参拝後に行われた各紙世論調査の数字はまさにそう告げている。
昭和天皇のお言葉のメモとされる元宮内庁長官、富田朝彦氏の手帳を、“絶妙なタイミング”で報じた『日本経済新聞』の世論調査が、8月21日朝刊に掲載された。結果は支持が48%にのぼり、反対の36%を大きく引き離した。他紙の調査も同様で、『読売新聞』では支持の声は53%、不支持が39%、『毎日新聞』は各々50%と46%だった。
新聞各紙もテレビ報道も、断片的な富田メモを以て、昭和天皇の御意思は“A級戦犯”合祀の靖国神社には参拝しないことだという大前提で報じるなか、過半の国民が首相の参拝を支持したわけだ。
それでもメディアはひたすら靖国参拝を否定的に報じるが、首相の参拝は中国に、日本の国家意思をこの上なく明確に示す結果となった。日中外交の未来は首相のこの基本姿勢を土台として築かれるべきだ。
中国は安倍官房長官が靖国神社を参拝していたことが報じられたときも、首相が8月15日に参拝を断行したときも、“想定の範囲内”の批判におさめている。その上で小泉首相の参拝後には「日本各界の有識者が政治的障害を取り除き、中日関係を正常な発展軌道に戻す努力をすると信じる」との外務省声明を発表した。昨年10月の首相参拝時に出した「侮るな」「持ち上げた石で自分の足を打つ結果になる」(『産経新聞』8月16日)との憎悪むき出しの声明に較べれば、中国の対日政策に変化が生じつつあるのは明らかだ。
中国にとって対日政策、就中、歴史問題は、常に熾烈な国内権力闘争の政治的材料であり続けてきた。現在も進行中のその権力闘争を敢えて単純化して言えば、江沢民路線と胡錦濤路線の闘いである。
国民財産収奪の構造
江沢民氏が鄧小平の支持によって権力の座についたのは周知のとおりだ。鄧小平は同時に胡錦濤氏を、ポスト江沢民の指導者として、指名した。鄧小平によって引き上げられ、支えられて誕生しただけに、江前主席も胡氏を無視するわけにはいかない。
だが、権力者は権力に脅える。93年に国家主席に就任した江前主席は、94年秋までに鄧小平が認知症の症状を示し始めると、鄧小平の影響力の排除に努めた。鄧小平が目をかけた人々をさまざまな容疑で摘発して、一部を死刑に、或いは長期の刑を科して黙らせ、権力基盤を固めた。
10年後、国家主席の地位を胡錦濤氏に譲る際、江氏は後継者の手を縛れるだけ縛った。党の最高指導部を構成する政治局常務委員、9名中5名を子飼いの部下で占めた。胡主席は現在に至るもいわゆる“少数与党”的な立場に立たされているわけだ。また、2002年の全国人民代表大会では、中央委員会政治局全員の決議で、「今後も重要な問題は江沢民同志に諮って解決する。彼の決定を基準とする」ことを確認した。
中国問題に詳しい東京新聞編集局編集委員の清水美和氏は言う。
「その決定では請教(チンジャオ)という語彙、まさに生徒が先生に教えを請うという表現が使われました。胡は江の教えを請うて、教えに従って物事を処理するというわけです。これを党内文書で全国に伝達させたのです」
だが、胡錦濤路線はすでに、明らかに江沢民路線から外れている。江前主席は「三つの代表」の考えを打ち出した。中国共産党は①先進的な生産力、②先進的な文化、③広範な人民の利益を代表するとの考えだ。
最も重要なのが、中国共産党は、先進的な生産力の代表としての私営企業家をはじめて党員として迎え入れるという①の点だ。だが、これは酷い結果を生み出した。清水氏が語る。
「中国共産党員は全人口の5%にすぎませんが、私営企業家の約3分の1が共産党員です。彼らの殆どは、国営企業の経営者だった共産党員で、MBOを通して、一夜にして国営企業を我が物にし、私営企業家に成り上がった人々です」
MBOはmanagement buy-out、経営者が自社株を買い取る仕組である。国営企業の資産は中国国民の共有財産だ。にもかかわらず、「三つの代表」政策推進のなかで、共産党幹部らは労せずして自分の担当する国営企業の株を買い、一夜にして民営企業のオーナーとなった。共産主義の旗の下で、限りない国民財産の横領が繰り広げられているのだ。
こうして成り上がった人々が現在の中国のエスタブリッシュメントだ。その代表が江沢民一族であり、氏の長男の江綿恒氏である。
中国へ断固たる姿勢を
胡主席は、江沢民路線に対抗して、2003年には科学的発展に基づいた国家の構築、2004年には調和社会の構築を打ち出した。世界中の資源を暴食中の中国を、省資源型の国家に作りかえ、富める者は尚富み、権力者は尚権力を強める社会で打ち捨てられてきた農民や貧困層に、富を分配していこうという政策だ。
路線の違いが、自身と自身の一族の命運に直結するだけに、双方の争いは利権と全命運をかけた血みどろの様相を呈する。そうした中で、対日宥和の姿勢は政治的な隙となり、そこにつけ込まれかねない。二つの勢力の中で、対日政策が常に“政敵の足を引っ張り、政界から葬り去る”材料とされてきたのは、85年の中曽根康弘首相(当時)の参拝を問題視した時から明らかだった。
折しも、「江沢民文選」全三巻が発表され、「(日本に対しては)歴史問題を始終強調し、永遠に話していかなくてはならない」と書かれていることが明らかにされた。
李肇星外相がほめたたえる序文を寄せ、唐家迺㍾走ア委員も同書を絶賛した。中国の対日政策の司令塔と見做すべき人々は皆、江沢民の対日強硬路線の枠の中にいる。胡国家主席とて現在は同じである。
だが、強調したいのは、江前主席との比較で胡現主席が、民主的で好ましく親日的にもなり得るなどと甘く考えてはならないということだ。そもそも胡主席が鄧小平に見込まれたのは、チベット動乱のときに、党中央の指示を待つことなく自ら鎧兜を被って戦車に乗り込み、大弾圧の先頭に立ったからだ。10万人の僧やインテリが無残に殺されたチベット動乱で、弾圧の功をたてたことが彼の最高権力の地位への出発点だった。彼は到底、私たちが考える民主的な指導者ではあり得ないだろう。
だからこそ、日本側に必要なのは、日本の問題が中国の国内権力闘争の具として利用されることを断固として拒否することだ。小泉首相の参拝は、そうした中国の対日政策をきっぱりと拒絶したことを意味する。この小泉路線の上に立ち、日中の価値を守ったうえで未来の日中外交を築いていくべきであり、それを国民は支持しているのである。
『週刊ダイヤモンド』 2006年8月26日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 654
小泉純一郎首相が8月15日、礼服着用で靖国神社を参拝した。8月15日の参拝という公約と中韓両国との外交関係とのあいだで揺れ動いてきた五年余の任期の最終段階で、首相は公約を果たすとともに、対中外交において正しい姿勢を示したといえる。
首相の参拝は今後の日本外交の重要な指針となる。中国の主張には決して引きずられないとの決意を示す今回の参拝は、液状化しつつあった日本の国家基盤を強化するもので、首相はその点において歴史に名を刻むだろう。
参拝後、首相が語った。「なぜ8月15日なのか?」との問いに、当初は中国との関係などを考慮して15日だけは避けるべきだとの助言を受け入れたが、いつ、どのようなかたちで参拝しても、中国は必ず批判すること、また、常にこのことを問題視する勢力が存在することもわかったという。そうしたことを知ったからこそ、8月15日を参拝日として選んだのだと首相は強調したが、これこそ重要な点だ。
当欄でも指摘してきたが、靖国神社問題は、中国にとっては日本コントロールのための政治的材料にすぎない。つまり、参拝してはならないと中国が“厳命”すればただちに参拝をやめる日本になるまで、中国は靖国神社を問題にし続けるだろう。15日を前倒ししても、4月や1月に繰り上げても、中国の“厳命”に従わない限り、中国の内政干渉は続くのだ。
折しも8月10日に発売された江沢民前国家主席の『江沢民文選』(全三巻)には、江主席が1998年8月に各国への駐在大使を集めて「日本に対しては歴史問題を常に強調すべきだ。永遠に言い続けなければならない」と指示していたと書かれている。
これは、じつは98年の江主席訪日を前に中国共産党が日本を分析し、対日政策を策定した場でのことだ。江主席の指導の下で、中国共産党は、中国の国益のためには豊かな経済力を有する日本をコントロールすることこそが重要だと結論づけ、歴史問題を日本支配の有効な手段として利用することを、対日政策として決定したのだ。今回の江沢民文選は、右の中国共産党の決定を裏づける内容だ。
「永久に日本に歴史問題を突きつける」のであるから、どれほど参拝の日程を変更しても「いつも批判する」と小泉首相がいみじくも述べたように、中国の批判はなくならない。そのことを首相は5年余の体験で実感したのだ。
心ある日本人なら、この中国の実態をしっかりとわきまえなければならない。そのうえで、首相のもう一つの指摘、「常にこのことを問題視する勢力がいる」についても、深く考えたい。
靖国参拝を常に問題視してきたのは中国とともに日本の大部分のメディアである。メディアは常に、“中国の激しい反発”を批判のよりどころとしてきた。事実、今回の報道でも、首相参拝で中国が猛反発して日中関係がさらに悪化するとの主張が目立った。
しかし中国は、安倍晋三官房長官の4月の参拝に関して型どおりの反発はしたが、氏の個人名も特別の厳しい表現も、批判のなかでは用いなかった。退陣する首相にはより厳しい批判が飛んでくることは織り込みずみで構えるべきだ。しかし、批判とともにどんな表現で日中関係の未来が語られているかをこそ、見なければならない。江沢民流の強硬路線の行き詰まりや、支配者然とした外交は日本に通用しないと実感している勢力も、現在の中国には存在する。一枚岩ではない中国の内情を日本のメディアはきちんと伝え、中国の対日強硬派とのみ同一歩調を取るような報道は慎むべきだ。
日中関係は、双方が対等に主張し振る舞ってこそ真に建設的になりうる。そのためにも、最後の場面で小泉首相が打ち立てた毅然とした外交を、日本人全員の叡智で守り立てていかなければならない。
『週刊新潮』 ’06年8月17・24日号
日本ルネッサンス 第227回
8月4日、安倍晋三官房長官が今年4月15日に靖国神社を参拝していたことが報じられると、多くの新聞が、これで靖国神社問題が9月の自民党総裁選挙の争点になるのは避けられなくなったと分析した。とりわけ私の目を引いたのは『朝日新聞』だった。
朝日は5日付の朝刊1面で「苦肉の隠密参拝」とし、2面の「時時刻刻」で、安倍氏は「アジア外交の立て直しという難題に直面する」と批判した。
社説は、「これでは解決にならない」と題して、「口をつぐんで済まされる問題ではない」「首相になれば、靖国神社に参拝するかどうかが常に問題であり続ける可能性が大きい」「是非をめぐって国内の世論は分裂し、中国や韓国などとの外交的な行き詰まりは続く」と批判した。
安倍官房長官が4月の例大祭を前に参拝し、同情報が3か月以上も経たこの時期に伝わってきた、或いは伝えられてきたのは、どうみても安倍氏側の戦略の勝利である。たしかに、朝日新聞などが主張するように「きちんと考えを語」り堂々と参拝するのが良いだろう。しかし、現実を見据えなければならない立場、とりわけ次期首相の地位に最も近い政治家として、今回の行動は、本来、総裁選挙の争点になるべきではない靖国問題に自分の信念を貫く形で対処し、同時に参拝反対の勢力に利用されないための、いわば考え抜いた大人の行動である。
朝日社説子は靖国神社参拝の是非を巡って国内の世論が分裂する、中韓両国との外交関係の行き詰まりが続くと憂えている。だが世論の分裂は常のことだ。大事なことは、事実に基づいて冷静な議論を重ねる知性を失わないことだ。
そして外交問題に関しては朝日の期待は裏切られた形だ。今回の中国政府の反応は非常に注意して見る必要がある。中国外務省は日本のメディアの問い合わせに答えて「日本のリーダーがA級戦犯が祀られた靖国神社参拝を停止することを望む」という談話を発表したのみである。
つくられた「靖国問題」
右の談話には、これまで中国政府が繰り返してきた口汚い罵りも、誇大な感情表現もない。さらに安倍氏への直接的な言及も非難もない。日中関係のこれまでを注意深く観察し、その延長線上に今回の淡々とした談話を置いてみると、中国政府は明らかに、靖国神社参拝をこれ以上問題にしたくないと考えていると判断してよいだろう。
中国政府の対日政策は2003年の胡錦濤政権誕生以来、対日宥和と反日の間で揺れてきた。いずれの方向に傾くかは、国内権力闘争が大きな要因となってきた。
中国政府がいま、対日宥和策に傾いているとは、まだ到底、言えない。だが確かなことは、今回の安倍氏参拝を殊更大問題にしようという気は中国側にはないと見てよいことだ。朝日の社説子は大いに落胆するだろうが、靖国神社問題について中国は元々、こだわってはいなかった。靖国神社もA級戦犯も、中国にとっては痛くも痒くもない問題だったことに、私たちは思いを至すべきだ。
当欄で度々指摘してきたことだが、記憶の確認のために改めて述べておく。靖国神社へのA級戦犯の合祀は1978年秋に行われた。新聞に大きく報じられたのは79年4月、春の例大祭の前である。大平正芳首相は同年の春と秋の例大祭にお参りし、その年の12月に中国を訪問、大歓迎された。日中両国の共同新聞発表は、中国が日本の技術、経済援助にいかに感謝し、熱烈に日中友好を歓迎しているかを示す表現で溢れている。
79年5月に時事通信の取材に応じた、当時の中国の最高実力者である鄧小平副総理も、靖国神社にもA級戦犯にも一言も触れてはいない。鄧小平が力説したのはソ連の軍事的脅威の増大である。鄧小平は当時、日本がソ連から北方四島を取り戻すのであれば中国は日本を支援するとさえ語っている。
ソ連の脅威を強調する余り、中国が、日本は軍事大国になるべきだと日本の背中を押し続けたことも忘れてはならない。1980年4月末に訪中した中曽根康弘氏に対して、中国人民解放軍のナンバー2、副参謀総長の伍修権は、日本の軍事費はGNPの1%にとどまらず、2%にふやすべきだと具体的数字をあげて語った。軍事費を2倍にして軍事大国になれと、当時の中国は日本に言い続けたのだ。彼らにとってA級戦犯合祀や靖国神社参拝は、全く、何の問題でもなかったのだ。
A級戦犯合祀が公になってから6年半がすぎた85年9月、周知のように中国は突然、靖国神社参拝は許し難いと言い始めた。
こうした経緯を振り返れば、朝日の「外交的な行き詰まり」という嘆きは、自作自演の醜悪な独り善がりに聞こえる。外交的行き詰まりを煽っているのはむしろ朝日ではないか。
朝日は日本の新聞ではない
それにしても、朝日は日本の新聞だろうか。否、それ以前に、そもそも、新聞としての機能を果たしているのか。
安倍氏の靖国神社参拝が報じられた翌日、各紙は中国が東シナ海の天然ガス田のひとつ、白樺(中国名・春暁)を中国国家発展改革委員会の張国宝副主任が7月23日に視察していたというニュースを報じた。全国紙のなかでただ一紙、8月7日朝刊現在に至るまで、同ニュースを全く報じていないのが朝日である。白樺ガス田は海底で日本側のガス田とつながると見られており、白樺での生産開始は日本の天然ガスを中国が不法に奪うことを意味する。
日本は領土領海を守るために中国の不法行為に大いに抗議しなければならず、メディアには出来るだけ多くの情報を国民に提供する責任がある。同件を全く報じない朝日は、報道機関としての責任を果たしていないと言われても仕方がない。
日本叩きに通ずる靖国問題を、1面2面、社説を使って大きく報じても、中国の過去と現在の靖国神社問題についての豹変振りを伝えないとしたら、加えて中国が真正面から非難されるべき東シナ海のガス田開発について報じないとしたら、朝日の報道は偏っており、もはやまともな日本の新聞とは呼べないだろう。
日本人、とりわけ日本国の首相である小泉純一郎氏がいま、重視すべきことは、靖国参拝問題がもたらす政治的意味である。中国が日本をその影響下に置き、屈服させる手段として靖国神社問題をもち出したのは一連の経緯から明らかだ。だからこそ、日本国の首相としては、そのような中国側の意図を断固拒否しなければならないのだ。そのために、靖国参拝は今年こそ、きちんとした形で行わなければならない。日中の対等かつ健全な外交の突破口もそこから開けていくと確信し、8月15日、堂々と年来の公約を果たすのがよい。
『週刊新潮』 ’06年8月10日号
日本ルネッサンス 第226回
何とも全体像がわからないのが「富田メモ」だ。元宮内庁長官の故富田朝彦氏が昭和天皇のお言葉として書き残し、『日本経済新聞』が報じたあの断片的なメモには実に多くの謎がある。
日経が報じたのは、4枚続くメモの、最後の頁の一部である。ところが、日経が報じなかった3頁目に書かれた文言が、テレビで裏がえしで報じられていたのを反転させるという驚くべき手法で明らかにされたのだ。新たに明らかになった3枚目に記された文言は、昭和天皇のお言葉を記したとされる富田メモの信憑性を強く疑わせる内容だ。
そこにはまず、「63・4・28」「☆Pressの会見」と記されている。昭和63年4月28日の記者会見のメモだと判る。メモに残された会見の内容は「昨年は」という記述から始まっている。63年時点での「昨年」であるから、62年のことがまず語られたことがわかる。
「昨年は」の下には「①高松薨去間もないときで心も重かった」「②メモで返答したのでつくしていたと思う」「③4・29に吐瀉したが/その前でやはり体調が充分でなかった/それで長官に今年はの記者/印象があったのであろう」と書かれ、さらに「=②については記者も申しておりました」となっている。
①は、昭和天皇の弟宮の高松宮が昭和62年2月3日に亡くなられたことを指しているのがわかる。
②は62年の天皇誕生日の記者会見はメモを準備して答えたため、意を尽した内容になったというもので、富田氏と思われる人物が「記者も(そう)申しておりました」と答えている。
③はお誕生日の4月29日、宴会の儀の最中に御気分が悪くなり食べ物を戻されたことに触れたくだりだ。
「その前でやはり体調が充分でなかった」は、お誕生日の数日前に皇居内林鳥亭で行われた宮内記者会との会見でのことだろう。「それで長官に今年はの記者/印象があったのであろう」との記述は、62年も優れなかった陛下の御体調は63年は尚更優れず、それで宮内庁長官には、今年(63年)は例年の記者会見の半分の時間にしたほうがよいとの印象(考え)があり、そうしたのだろうという意味ではないか。
覆い難い矛盾の数々
ここまで、メモは62年に関する内容であり、後続部分は以下のように63年に関する内容に移っていく。
「戦争の感想を問われ/嫌な気持を表現したが/それは後で云いたい/そして戦後国民が努力して/平和の確立につとめてくれた/ことを云いたかった/“嫌だ”と云ったのは 奥野国土庁長/の靖国発言中国への言及にひっかけて/云った積りである」となっている。
そのまま読めば、昭和天皇のあからさまな奥野誠亮国土庁長官(当時)批判である。このように言われるどんな発言を、奥野長官はしたのか。
氏は63年4月22日の閣議後の会見で靖国神社について「戦後四十三年たったのだから、もう占領軍の亡霊に振り回されることはやめたい」「鄧小平氏が言っていることを無視することは適当ではないが、日本の性根を失ってはならない。中国とは国柄が違う」などと語った(『朝日新聞』昭和63年4月22日夕刊)。
右の発言は4月22日、林鳥亭でのご会見はその3日後、富田メモに書かれた「Press会見」は6日後だ。立憲君主の理想を体現なさろうとした昭和天皇が、数日前の奥野発言をかくも性急に、個人名をあげて批判なさったのか。もっと慎重にお考えになる方ではないのか。驚きを禁じ得ず、俄には信じ難い。百歩譲って右の発言が確かに昭和天皇の御発言だとしても、これはそのあとの御発言と矛盾する。
このあと富田メモは、日経が報じた4枚目につながるのだが、日経はその頁の後半部分の13行のみを報じている。報じられなかった前半には次のように書かれていた。「前にあったね どうしたのだろう/中曽根の靖国参拝もあったか/藤尾(文相)の発言/=奥野は藤尾と違うと思うが/バランス感覚のことと思う/単純な復古ではないとも」
3枚目は4枚目の「前にあったね」につながる。だが、これは一体何を指しているのか。
「中曽根の靖国参拝もあったか」とはどういう意味か。靖国参拝をした日本国首相は中曽根康弘氏にとどまらない。昭和26年10月18日に吉田茂が参拝したあと、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫ら、歴代の首相が参拝を重ねた。“A級戦犯”合祀のあとも、大平正芳、鈴木善幸、中曽根の各首相は、中曽根氏が中国に言われて中止するまで計21回、参拝している。
となれば、「前にあったね どうしたのだろう/中曽根の靖国参拝もあったか」の2行の言葉は、現実認識を余りに欠いている。靖国神社や戦争について誰よりも真剣にお考えになっておられたはずの昭和天皇のお言葉としては、理解し難い。
国民に真実を示せ
さらに次のくだり「=奥野は藤尾と違うと思うが/バランス感覚のことと思う/単純な復古ではないとも」では、文字どおり藤尾氏との対比で奥野氏を評価している。3枚目で「嫌だ」と感情もあらわに表現された奥野氏への評価が、その数行後には変化しているのだ。
こうしてみると、メモ全体の内容がきわめてわかりにくい。それだけ富田メモは断片的な記述だということだ。
富田メモのもうひとつの、そして最大の謎は、同メモには前述のように「Pressの会見」と題がつけられ、また、富田氏と覚しき人物が「記者も申しておりました」と会見での記者の反応も書き記していることから、たしかに記者会見のメモだと思われる点だ。なぜ、これが最大の謎か。メモ執筆当日の4月28日、昭和天皇は会見されていないからだ。
では会見の主は一体誰なのだろうか。富田氏が書きとめた言葉の主が、万が一、昭和天皇ではない別人だったとすれば、日経の報道は世紀の誤報になる。日経の社運にも関わる深刻なことだ。だがそれ以上に日本国にとって、この言葉が真に天皇のお言葉か否かは重大関心事である。情報が限られている現時点では、私たちは判断の仕様がない。真実は富田メモの全容を知ることなしには見極められない。
私は富田メモはそもそも表に出るべき情報ではなかったと考える。氏が宮内庁長官として、職務で知り得た情報を書きとめたメモは、事実上の公文書だからだ。当初からメモは富田家の私的所有物ではあり得ないのであり、「いま」となっては尚更である。同メモが日本国の根幹に関わる重要問題を提起している「いま」、富田家と日経、そして宮内庁は速やかに同件の関連情報全てを公開し、真実を国民の前に示さなければならない。
『週刊ダイヤモンド』 2006年8月5日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 652
7月20日に「日本経済新聞」が「A級戦犯靖国合祀」「昭和天皇が不快感」と報じた元宮内庁長官の故・富田朝彦氏のメモは、理解に苦しむものだ。
「富田メモ」には、1988(昭和63)年4月28日付で昭和天皇のご発言として「A級(戦犯)が合祀されその上松岡、白取までもが」「だから私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と走り書きされていた。
このメモをもって、「産経新聞」を除く各紙はほぼいっせいに、昭和天皇は三国同盟に走り国を誤る元凶となった松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐イタリア大使を疎み、A級戦犯の合祀に不快感を抱いていたと断定、“A級戦犯”を分祀すべきだという論調に傾こうとしている。しかし、その解釈は天皇を究極的に貶めるものである。
「富田メモ」は、“A級戦犯”合祀に関して靖国神社の故・筑波藤麿元宮司は慎重だったが、合祀に踏み切った後任の故・松平永芳元宮司は怪しからんと怒っておられる天皇のお姿を想像させる。だが、筑波宮司がA級戦犯の合祀に反対で松平宮司のみが積極的だったというのは、事実に反する。このような思い違いが目立つ「富田メモ」を全面的に信頼することはできない。
このメモから浮かび上がる天皇像にも違和感を抱く。あの不当な東京裁判で、自らの命を差し出すことによって天皇と皇室を守り、日本国を守ったのが“A級戦犯”だった。そして昭和天皇もまた、ご自分の命を差し出して日本国と国民を守ろうとした。マッカーサーに対し、ご自分の運命はどうなってもよい、すべての責任はご自分にあると述べられ、いっさいの弁明をなさらなかったのは周知のとおりだ。
他人への責任転嫁をなさらない昭和天皇が、「富田メモ」ではおよそ正反対の姿である。これははたして真の姿なのか。88年4月当時の昭和天皇は体調も悪く、メモのようなご発言があったとしても、ご自分の真意を十分に伝えることができていなかったのではないかと思えてならない。
そして、メモはなぜ今になって流出したのか。国家機密保持の観点から問題の根の深さを指摘するのが、京都大学教授の中西輝政氏である。氏は、宮内庁長官だった富田氏が職務として昭和天皇のお近くに仕え、そこで入手した情報を書きつけた「富田メモ」は、まぎれもない公文書であると指摘する。
「富田メモの公開に関しては、まず陛下の許可が必要です。しかし、陛下は私人ではありませんから宮内庁の許可が必要です。宮内庁は同メモの発表には関知していないと言っています。富田さんのご家族はプライバシーを公表される側の許可をまったく取らずに公表したわけで、こんなことが許されると考えたのでしょうか」
現在の日本では、個人情報について行き過ぎた規制が行なわれている。事件や事故で病院に運ばれた人の病室さえも、個人情報だといって教えない病院が増えているなかで、天皇の情報が長官メモのかたちで流出したことの異常さに気づかなければならない。
庶民と異なり、多くの人が公私にわたって日々お仕えしなければ、天皇家の生活は成り立たない。お仕えする人びとがメモを取って、内容を確認することも合意を取りつけることもなく公表すれば、皇室を守るべき人びとは恐るべき暴露者になる。皇族の方がたにとって周囲がすべて敵になり、皇室は存続できないだろう。
中西氏は、「富田メモ」は欧米では公文書と見なされると指摘する。となれば、富田氏は退職後、公文書を自宅に退蔵し、それを今回、富田家が私的に流用したことになる。この種のことは英国では「公的機密保護法」で10年以上の懲役刑に処せられると、中西氏は言う。宮内庁始まって以来の大スキャンダルが示す、日本という国家体制のあまりの不備、驚くべき機密漏洩事件の本質をこそ見なければならない。
『週刊新潮』 ’06年8月3日号
日本ルネッサンス 「拡大版」 第225回
「A級が合祀されその上松岡、白取までもが、」「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」。元宮内庁長官の富田朝彦氏が、昭和天皇のお言葉として書きつけたメモが波紋を広げている。
スクープを物にした「日経」は7月20日付朝刊トップで同メモを「A級戦犯靖国合祀」「昭和天皇が不快感」と大見出しで報じた。政界、メディア界には早くも、“A級戦犯”の分祀論が高まっている。だが、富田メモを分祀推進の政治的動きに直結させてよいのか。そもそも富田メモはどれだけ信頼出来るのか。
メモの書かれた88年4月28日当時、陛下のご体調が万全でなかったのは周知のとおりだ。前年の9月12日に大量に嘔吐され、22日には手術が行われた。慢性すい炎とされたがガンであった。それから半年後の88年4月25日、誕生日を前に臨まれた記者会見は15分間、例年の半分の時間に制限された。報道各社はすでに万一の場合に備えて“臨戦態勢”に入っていた。その後も思わしくないご病状が続き、翌年の1月7日、陛下は崩御された。
外交評論家の田久保忠衛氏は次のように語る。
「あの時期の昭和天皇が、10年も前のA級戦犯合祀について、果たして御自分の意図が正確に伝わるように御意見を述べられていたのかどうか、失礼ながら、私は疑問に思っています」
体調が優れないとき、人間は考えてもみなかった思い違いもする。だからこそ、私たちは、当時の陛下のお言葉をとりわけ慎重に吟味しなければならない。
一方、陛下のお言葉を、富田氏がどれだけ正確に書き残したのかも疑問だ。メモは断片的で、御発言のなかから、幾つかの言葉が富田氏のフィルターを通して不完全な形で書き残されたと言わざるを得ない。この点について、富田氏を知る田久保氏はこう語る。
「富田元長官は高潔な方ではあったでしょうが、本当に歴史を知っていたのか。たとえば白鳥(敏夫元駐伊大使)を『白取』と書いています。また『筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが』と、恰も筑波(藤麿)宮司が合祀を渋ったかのように書かれていますが、これは事実と異なります」
富田メモでは昭和天皇は「筑波は慎重に対処」とする一方で、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と」と語ったとされている。筑波宮司の慎重な判断はよかったが、後任の松平永芳宮司は「易々と」A級戦犯を合祀して怪しからんという口調だととれる。
だが、A級戦犯の合祀を決めたのは他ならぬ筑波宮司である。同宮司は昭和45年2月の崇敬者総代会で、A級戦犯合祀を決定し、同年9月の同会で「時期は宮司預かり」と決めたのだ。
「文藝春秋」8月号で、上坂冬子氏と対談した湯澤貞前宮司も「筑波宮司は何度かA級戦犯の合祀を(崇敬者総代会に)諮っています」と述べている。つまり、天皇のお言葉という形で示唆された、筑波宮司はA級戦犯合祀に反対というのは事実ではないのだ。
次々と噴き出す“謎”
そして重要なのは、“A級戦犯”も含めて誰を合祀するかの決断は、靖国神社ではなく、厚生省、つまり政府が行なうという点だ。
合祀の手続きは政府から靖国神社に、合祀すべき人々の名簿、祭神名票が送られるところから始まる。靖国神社は同名簿を基に、その年に合祀する人々の名簿を新たに作成する。一定の書式に則って奉書に墨で清書し、絹の表紙でとじる。これは上奏名簿と呼ばれ天皇に奉じられる。
“A級戦犯”の場合も、同じ形をとって、昭和53年10月7日に、天皇に報告された。合祀は10日後の10月17日に、18日には秋の例大祭が行なわれ、昭和天皇は勅使を派遣した。
にもかかわらず、昭和天皇が富田メモに見られるような思い違いをされたのはなぜか。
「昭和天皇にきちんとした情報が伝わっていなかったのか、伝わっていたにしても御体調が悪くて健全に判断出来なかったのか、或いは忘れてしまわれたのか。または、歴史に明るくない富田さんが事実と異なったことを書いてしまった可能性も考えられます」
と田久保氏は語る。
矛盾を含む富田メモを以て、「日経」は「A級戦犯靖国合祀」「昭和天皇が不快感」と見出しをつけた。が、この決めつけは疑問である。これまで“A級戦犯”といえば東条英機元首相の代名詞であるかのように報じられてきた。その東条元首相に対する昭和天皇の思いがあたたかいものであることは「昭和天皇独白録」(文藝春秋)の随所に散見される。
天皇は語っている。「元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る」「一生懸命仕事をやるし、平素云ってゐることも思慮周密で中ゝ良い処があった」と。東条の評判が芳しくないことについても「圧政家の様に評判が立ったのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝らなかったことと又憲兵を余りに使ひ過ぎた」所為だとして、言葉を尽くしてかばっている。
東条元首相の孫の由布子さんは、昭和天皇が靖国神社を参拝されなくなったあとも、宮中のお使いを東条家に派遣し「御心配の御伝言」をされていたと語る。
他方昭和天皇は、三国同盟を推進した松岡洋右については非常に厳しい。
「『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」、「一体松岡のやる事は不可解の事が多い」「彼は他人の立てた計畫には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持ってゐる」(前掲書)とまで語るのだ。
その意味で富田メモの「松岡、白取までもが」という部分に裏づけはある。しかし、松岡を疎んだことは事実としても、“A級戦犯が……”といって、東条元首相を含む人々を合祀した靖国神社参拝をやめることは昭和天皇の御性格からして考えにくい。
歴史事実との矛盾
日本が占領されたとき、昭和天皇はマッカーサーに、全責任は自分にありと言って、日本国と国民を守ろうとした。マッカーサーが重光葵外相に感動して伝えた天皇のお言葉は次のようなものだった。
「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにもまた事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題でない。構わず総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」
決して他人に責任転嫁されない姿勢に感動するのはひとりマッカーサーだけではないだろう。このような天皇を守り通したのが、“A級戦犯”とされた人々、就中、東条だった。
東条は極東軍事裁判で日本を犯罪国家として裁いたキーナン検事に、最初は「日本国の臣民(自分)が陛下のご意思に反してかれこれすることはありえぬことであります」と答えた。昭和天皇は「彼(東条)程朕の意見を直ちに実行したものはない」と語っているが、東条の証言はまさに真実そのものだっただろう。しかし、次の法廷で東条は「(天皇は)私の進言、統帥部その他責任者の進言によって、しぶしぶ(戦争に)ご同意になった」と述べて、証言を変えたのだ。
国際政治の専門家、京都大学教授の中西輝政氏は、
「東条、或いは広田弘毅外相のように天皇の身代わりになって処刑台に立った人々が靖国神社に祀られることに関して昭和天皇が抵抗感をお持ちなわけがありません。もし、お持ちなら、それは人の道に反します。東条も広田も平沼騏一郎も皆、開戦に反対でした。富田メモから“A級戦犯”全てについて天皇が不快に思っていたと結論づけるのは、したがって不完全な解釈だと思います」と語る。
昭和天皇がいかにこの国の基本を守ろうとしたかを知れば、部分的に公表された富田メモの中の片言隻語をひとり歩きさせることには、慎重でなければならない。
日大教授の百地章氏は、憲法も国際法も非常に重視し、立憲君主国日本の天皇として、憲法上の規定に忠実であろうとした天皇の考えにこそ想いを至すべきだと強調する。
「昭和天皇は立憲君主として御自分の個人的な発言や言動が政治を左右することのないよう、非常に注意しておられました。だからこそ、御自身は反対でしたが、開戦も裁可なさった。個人的な思いで政治を動かしてはならないと、そこまで御自分を律した方が、今回のメモの流出、その政治利用を御覧になればどれほど悲しまれ、憤ることでしょうか」
昭和天皇がお好きなテレビ番組や贔屓の力士についても明かさなかったのは余りにも有名なはなしだ。最後となった昭和63年のお誕生日の記者会見でも、大戦の原因を尋ねられ、人物批判につながるからと口を閉ざされた。
ただ天皇も人間である。これだけ公の発言を慎重にしていた方ではあるが、何年にもわたり身近に仕える人物に心を許してこもごも語るのは、自然なことだ。身近に仕える人々はそのようなお気持を受けとめ、それが外部に漏れないように守らなければならないはずだ。にもかかわらず、内側から情報が漏れた。
國學院大学教授の大原康男氏が、富田メモで“親の心子知らず”と批判されている松平宮司について語った。
「父の松平慶民さんも日記を残していました。息子に『自分の死後は焼却せよ』と言い残したのですが、日記には宮中のことだけでなく、家族のことも書かれていた。それで暫く手元に残していたのですが、晩年になって日記を焼却しました。それが普通の対処です。ところが入江相政侍従長のときから事情が変わりました。今回も、自分の書き残した情報をきちんとコントロールしていなかった富田さんの責任が問われます」
昭和天皇の身の処し方
天皇は公人であり、その言動についての情報は情報公開の対象となる。だが、どんな機密情報公開制度でも18年では機密は公開されない。中西教授は、富田メモの流出は驚くべき機密漏洩事件であり、日本という国家体制の余りの不備を表わしたものだと警告する。
今回のようなメモが流出するとなると、現皇族の方々は、およそ誰にも心が許せない状況となる。個人情報の保護といって民間では同窓会名簿も作りにくくなっているのに較べ、公人とはいえ、天皇家の人々の情報を守る手立ては余りに脆弱である。富田メモは公私の別も、守るべき情報の選別も考えずに公開された。政治的動機を疑われても弁明は出来ないだろう。
公開されたメモが、たとえ、天皇の真意を伝えているとしても、それによって政治を左右することは厳に慎まなければならない。私たちは天皇の政治利用ですでにとりかえしのつかない失敗をしてきた。92年、尖閣諸島までも自国領だと主張し始めた中国に天皇皇后両陛下の御訪問を実現させたことだ。いま、富田メモを以てA級戦犯分祀を主張する人々の多くは、当時、天皇御訪中で日中関係は未来永劫安定すると説いた。だが、御訪中は中国に利用されたにすぎないことが、いまになれば明らかだ。同じような人々がA級戦犯分祀というが、天皇の政治利用は二度としてはならないのだ。
富田メモによって、天皇の権威や人柄は究極的に貶められかねない。そのような事態をさけるために、私たちは昭和天皇が87年の生涯を通じて、非常に大きな辛い犠牲を経ても守り通そうとした立憲君主としての身の処し方、その精神を想起し、賢く対処しなければならない。それは片言隻句の文言によって判断するのではなく、天皇が国民の前に示した事実に基づいて判断することだ。特定の人物を疎まれているとしても、それを以て、天皇がA級戦犯合祀の靖国神社に不快感をもつのは道理に合わないことを正面から受けとめるのだ。結論は明らかだ。首相は今年、靖国神社にきちんと参拝すべきである。他のいかなる道も、天皇の政治利用と中国への故なき屈服につながることを忘れてはならない。
『週刊新潮』 ’06年6月8日号
日本ルネッサンス 第217回
福田康夫氏の首相候補としての存在感が高まり、支持率が急上昇中だそうだ。福田氏なら中国外交を巧くやってのけることが出来そうだからというのが理由らしい。
日中外交をスムーズに進めるために、靖国神社に参拝する首相に異義を唱え、“A級”戦犯を分祀せよと主張してきたのが福田氏だ。福田路線を支持すべく、氏の背後に控えるのが古賀誠、山崎拓両氏らだ。政治活動、個人的行状からみて、いずれも疑問符をつけざるを得ない人々だ。
メディアも“福田氏の存在感増す”と報じ、事実上支援している。
しかし、福田路線で本当に日中関係はうまくいくのか。私はそうは思わない。氏の政策の主だったものは、靖国神社参拝反対、“A級戦犯”分祀、代替追悼施設の建立、女系天皇制への移行などであろう。それら全てに共通するのは、眼前の問題に対処する弥縫型の政策であることだ。どこにも日本の国益を見詰める高い理想は見えない。福田路線に立脚する限り、日本国の立場の主張は金輪際不可能だ。
これまでの推移をしっかりと見詰めれば、日中関係の悪化は決して小泉首相の靖国参拝が主因ではない。主因はむしろ中国国内政治にある。具体的には胡錦濤、江沢民の現、前国家主席と各々の傘下に連なる陣営の権力争いの側面が非常に強い。
以前は、首相の参拝にもかかわらず、胡錦濤政権は小泉首相に前向きに対処していた。03年5月31日、ロシアのサンクトペテルブルクにおける初顔合わせで胡主席はSARS問題についての日本の支援に“心から感謝”した。
中国を長年取材してきた東京新聞編集委員の清水美和氏が語る。
「胡錦濤国家主席が日本に頭を下げて感謝したのには、非常に深い意味があった。江沢民は日本から多額のODAを貰いながら感謝もせず『評価する』と言っただけです。しかし胡主席は小泉首相に握手を求めて心から感謝すると述べた。その時点で首相はすでに3回、靖国参拝をしていた。江沢民時代とは対照的に、中国政府は靖国問題を超えて長期的視野で日中関係を築きたいと考えていたのです」
中国政府の日本に対する考え方は03年3月号の「文藝春秋」「中央公論」に掲載された人民日報論説部主任編集の馬立誠氏の論文にも反映されていた。論文で氏は日本を「事実に即して言えば、アジアの誇り」「率直にアジアの誇りであると言える」と絶賛した。そのうえで、「日本の謝罪問題はすでに解決」「中国の直面している課題のより多くは国内問題」と述べ、「感情的になるように煽るそうした『愛国者』は、実際には愛国賊なのだ」という言葉を引用した。そして中国のナショナリズムの問題点として「独善」と「排外」をあげた。
日本分断戦略を見据えよ
氏は「中日友好こそは唯一の正しい選択である」と強調したが、これは胡政権の意思の反映だった。流れを変えたのは、中国内の「愛国賊」の動きとそれを利用した江沢民勢力である。
同年8月には、胡錦濤路線を生ぬるいとして中国内で日本の新幹線購入に反対の署名が集まり始めた。江沢民が長年実施してきた反日教育の“成果”が時の政権に抗う形で表面化したのだ。日本側にも馬鹿な行動があった。9月の珠海での集団買春事件がそのひとつだ。住宅リフォーム会社「幸輝」の社員らによるもので、同社は後にお年寄りを狙った悪質リフォーム詐欺で逮捕者を出した。
西安大学での日本人留学生の寸劇も、中国社会の底流に教育で叩きこまれた反日感情の起爆剤となった。
反日感情の烈しさに、中国政府は狼狽し、対日政策の練り直しに乗り出した。これが同年12月に唐家迺㍾走ア委員が主宰した対日工作会議である。馬立誠論文や胡主席の日本への感謝に代表される友好的政策は否定され、強硬策をとる基本政策が確認された。但し、日本が中国を必要とするように、中国も日本を必要とする。というより中国は日本なしでは二進も三進もいかない。経済、技術において、中国は日本なしには成り立たない。だから中国政府は政治と経済の切り離しを考えた。それが「政冷経熱」である。
小泉首相ひとりを悪者にして、旨味のある経済だけはしっかり抱え込み実利を担保する方針を立てたのだ。
05年にはさらに中国がいきり立つ場面があった。同年2月の日米安全保障協議委員会、通称「2+2」で、両国の戦略目標にはじめて「台湾海峡を巡る問題の対話を通じた平和的解決を促す」という一文が入ったのだ。万が一、中国が軍事的手段に訴える場合、日米両国は対応するという意味だ。
米国に非難の矛先を向ける余裕のない中国は、さらに対日強硬策に傾く。日本の力を殺ぐために日本国内を分断し小泉首相を孤立させる。国際社会では、日米分断で日本の孤立をはかる。政冷経熱と4月の胡錦濤訪米の、それが意味である。
誇りを失った財界人
こうした背景事情に目配りすることなく、中国政府の政冷経熱政策に乗ったのが当時経団連会長の奥田碩氏、経済同友会の小林陽太郎氏、北城恪太郎氏らである。三氏は小泉首相に靖国参拝中止を提言したが、それは日本国を想うよりも、明らかに三氏が軸足を置く各企業の利益を想ってのことと考えざるを得ない。
三氏らは福田氏同様、首相の靖国参拝中止で日中関係は友好裡に発展していくと考えているようだ。しかし、これは浅知恵、視野狭窄、なによりも日本を貶める考えだ。
中国の要求に膝を屈すれば全てうまくいくと考える福田氏はじめ親中派の人々は、そのような考え方こそが日本を歴史問題の泥沼に引きずり込んでいくことを認識すべきだ。
中国政府は靖国参拝問題で、歴史問題を利用して日本を動揺させられること、日本を支配出来る旨味を実感した。その手を使わないはずがない。そこで何が起きたか。尖閣諸島の中国領有を主張する「中国民間保釣連合会」の童増会長が、日中戦争当時の日本企業による中国人の強制連行などに対し損害賠償訴訟を中国国内でおこすべく「中国民間対日賠償請求連合会」を4月に設立し、中国共産党がこれを公認したのだ。同連合会には中国共産党、政府、軍のOBが多数、名を連ねている。中国政府が手綱をゆるめれば、右の連合会は途方もない訴訟行為に出る危険性がある。中国政府が、靖国を遙かに超えて、深刻な実害を生み出す、歴史をめぐる訴訟メカニズムを作らせたのだ。
眼前の小利益を追い求める余り、歴史問題で不当な妥協を重ねることは墓穴を掘ることにつながる。親中派政策の行き着く先こそ、この墓穴である。中国の思惑も見破ることなく、墓穴を掘る人々に問いたい。そんな有様で何が日本を代表する財界人か、何が首相候補かと。
『週刊新潮』 ’05年10月27日号
日本ルネッサンス 第187回
10月17日、靖国神社の秋の例大祭に小泉純一郎首相が参拝した。批判されるべき理由もない首相参拝に対し、奇妙な非難が沸き立っている。
王毅駐日中国大使は、17日は中国の有人宇宙船神舟6号が無事帰還を果たした日であるとして、同日の参拝は「中国の国民に対する重大な挑戦」で「小泉総理大臣は中日関係を損ねたという歴史的責任を負わなければならない」との声明を発表した。だが、靖国神社と戦没者遺族会にとって最重要の秋の例大祭の日に首相が参拝し、その日が偶然、神舟帰還の日にぶつかったにすぎず、声明は言いがかりに近い。
中韓両国の反発のみならず、日本国内でも一斉に非難の声があがった。18日各紙の社説は「中韓の反発が国益なのか」(『毎日』)、「これが『適切に判断』した結果なのか」(『日経』)、「負の遺産が残った」(『朝日』)などの見出しが並び、各社は署名入りのコラムでも首相参拝を非難した。
『日経』では田勢康弘氏が首相の参拝は憲法20条3項に抵触の疑いありと指摘、『朝日』では本田優氏が、首相参拝は「東アジアを不信と緊張の『負の螺旋』に陥れかねない」、それを止めるのは「日本の責任」と結論づけた。17日夜のテレビ報道では、元外務官僚の岡本行夫氏らが筑紫哲也氏の番組で沈痛な表情で日中関係の悪化を嘆いた。岡本氏はこれで“悪い材料は出尽くした”と述べ、首相参拝を“悪い材料”とする立場で語った。
この一連の奇妙な反応こそが日中関係を悪化させ、こじらせていく。参拝で日中関係が損なわれるというが、真に損ねているのは中国ではないのか。直近の事例は、中国の責任こそ極めて大きいことを示している。今年4~5月の反日暴動で日本大使館、総領事館、日本企業に加えた破壊行為について、今日に至るまで中国政府は謝罪していない。昨年の領海侵犯も同様だ。東シナ海の天然ガス・油田は、日本の中止要請を無視して、いまこの瞬間も開発されており、日本の資源が吸いとられるのは時間の問題だ。さらに中国各地に歴史記念館を建て、反日教育を続行中であるのは周知のとおりだ。
日本の「死者の文化」とは
岡本氏は首相の参拝が「現在も軍国主義DNAを持つ日本」の象徴として中韓両国に受けとめられていると憂慮する(『産経』18日)が、戦後の日中両国の歩みを検証したうえで発言しているのか。
戦後60年間、日本は一度も軍事力をもって他国に脅威を及ぼしたり攻め入ったことはない。他方、中国はまさに軍国主義の道を歩んできた。1949年の建国直後にチベットに軍事侵攻し中国領とした。50年から4年間、朝鮮戦争で北朝鮮と共に韓国を侵攻した。54年から55年まで台湾海峡で阡」介石の国民党軍と戦った。59年、僧侶たちに大弾圧を加えチベット動乱を引きおこした。62年にはインドと、69年にはソ連と、国境を争って戦った。70年代にはベトナムと戦って西沙諸島を取り、79年にはベトナムを“懲罰”するといって侵攻した。80年代には南沙諸島を軍事力で脅かし、95年には南沙諸島のフィリピン領有の島を占拠し、軍事施設を構築した。そして現在も、東シナ海には中国海軍の軍艦が遊弋する。
こうしてみると、“軍国主義のDNA”は中国にこそ顕在する。この点の指摘なしに日本のみを軍国主義といって責めるのは公正さを欠く。その後ろ向きの議論こそが、日中関係を蝕む。
靖国神社は日本人の心、文明の問題である。柳田國男氏は、日本人の宗教観の根底には、死者の肉体は滅びても、霊魂は日本の国土の周囲にとどまり子孫や生者を見守っているとの考えがあると指摘した。江藤淳氏は日本文明の柱を「死者の文化」と表現し、「日本人は生者のことだけを考えていい民族ではない」と書き残した。
事実、日本人は死者との対話のなかで暮らしてきた民族だ。だからこそ、私たちは命日にはお墓に詣で、お盆には迎え火で精霊となった愛する人々、ゆかりの深い人々の魂を迎え、対話し、送り火で送り出し、次の年のお盆までの別れとなしてきた。幽明漠とした、生死の境も定かならぬ次元での生者と死者の対話を大切にしてきたのがこの国の文明である。
日本のために戦い、若くして子孫も残さずに亡くなった霊は、当初は親兄弟に弔ってもらっても、時間の経過のなかで、やがては忘れられていく。彼らの魂を慰めるため、いかに時が移っても忘れられる心配のない地を、日本人は創り出した。それが民間の有志が全国各地に建てた招魂社であり、各地の招魂社を統合して生れた靖国神社である。
中国が問題とする“A級戦犯”はすでに命を差し出し、自らに突きつけられた“責任や罪”を背負った。日本の国会は、黙って耐えた彼らを“犯罪者ではない”と全会一致で定めた。靖国と“A級戦犯”の問題は、小泉首相が繰り返すように、もはや心の問題なのだ。
歴史の大潮流を見据えて
少なからぬ論者が、靖国参拝による日中関係悪化の打開策を考えるのは日本の責任だと主張する。彼らとは正反対の理由であるが、日本こそが活路を開くべきだという点については、私も同意する。そのためには、靖国も満州事変も、大きな歴史の流れのなかで論ずることだ。満州事変や南京事件がどのような大潮流のなかで生じたかをこそ、見るべきだ。
ペリーの力ずくの砲艦外交の前に開国した日本は、急速に力をつけ明治37(1904)年の日露戦争に勝利する。米国大統領、セオドア・ルーズベルトはバルチック艦隊の敗北の原因を研究させ、将来の日本との対立に向けて準備を進める。米政府は、1907年には日本打倒の戦略、「オレンジ・プラン」を作成、21年のワシントン海軍軍縮会議では日英同盟を破棄させた。米国が日本と戦う場合、強大な英国と日本が同盟関係にあってはまずいからだ。加えて米国は日本人を黄禍として激しく排除した。この延長線上に日本が絶対に呑むことの出来ない内容と言われた事実上の最後通牒、ハル・ノートと日米開戦がある。
日本に戦争回避は恐らく出来なかっただろう。日本は出来る限りの努力をした。個々の場面では確かに間違いもあっただろう。しかし、歴史の大潮流を把握すれば、日本だけが一方的に悪いとする見方は余りに底が浅い。だからこそ、歴史を長期、広範に見詰め、従来の見方を変えていくことだ。その努力が、日中関係に活路を開くのであり、それこそが日本の責任である。
小泉首相の参拝を、私は支持するが、いかにも気軽なその参拝方式には反対だ。各国注視のなかでの参拝は、日本文明に基いて、歴史をわきまえ国益を代表する機会である。日本が日本らしく在るための戦いには、作法も身仕舞も整えて臨むのがよい。