「 内閣法制局こそ違憲である 」
『Voice』 2001年5月号
竹中平蔵・櫻井よしこ連載対談 目を覚ませ、日本人 第5回
自分たちを信じられるか
櫻井:昨年1月に国会内に憲法調査会ができて、はじめて公に憲法を論じられるようになりました。それ以前は、憲法を論じただけで変な目で見られましたし、まして改正なんていおうものなら、右翼のレッテルを貼られました。その結果、多くの政治家や言論人が理由もなく非難されたり、政治家の場合はポストを失ったりした時代が長く続きました。憲法問題に関しては、日本はきわめて不健康な時代が長く続きましたね。
竹中:では、これで健康的になるのでしょうか。
櫻井:いいえ、まだ“健康的”とはいえないと思います。理由は、議論はしてもいいけれど実際に憲法改正に踏み込んではならないという枠になっているからです。憲法調査会も議論をすることは許されていますが、改正案を提案する権限は与えられていないのです。しかも5年間は議論しましょうという姿勢です。変化の激しい時代に5年間というのは、悠長すぎませんか。憲法調査会という形だけつくって実際の改正に手をつけないで終わるとしたら、かえってマイナスです。ただ、国民レベルでは、9条にかぎらず現行憲法は時代に合わない部分があるのだということは感じはじめているようです。『朝日新聞』の世論調査でさえ、過半数の人が改正に賛成しているのですから。
私は、憲法を改正できるかどうかは、日本人が自分自身を信じられるかどうかにかかっていると思います。改正といえば、誰でも9条を思い浮かべます。改正に反対の立場の人は、日本がもう1度、軍国主義の道に逆戻りするといって反対します。しかし、日本が軍国主義になるか否かは国民が決めることです。国民は、1人ひとりの私たちの集合体のはずです。となれば、私という人間が軍国主義に走るのかどうかが、日本が軍国主義に走るかどうかの重要な決め手になってきます。つまり、憲法も軍国主義も自分次第というところに行き着きます。だからこそ、自分は軍国主義に走るなんてことはないんだという強い意志と信頼感を自分自身に対してもっていれば、憲法改正への抵抗は小さくなるのではないでしょうか。
竹中:「自分たちを信じられるか」というのがキーワードですね。日本という国は、戦後の再出発にあたってとても重苦しい悪夢、つまり自分たちが自分たちの暴走を止められなかったという反省からスタートしているのです。だから、自分たちは何をするかわからないから縛っておいてくれ、という思いが日本国憲法の根幹にあり、それが表明されたものが9条だと思います。
さて、憲法は議論するにとても大きなテーマですが、私が危惧するのは、こうした社会的な政策論議が日本でなされるとき、えてして問題が矮小化されてしまうということです。このいちばんの犯人はマスコミです。世界平和をどう考えるかという話を始めたはずが、戦争に巻き込まれることへの懸念であるとか、第2次世界大戦中に起こった細かい事件とかに話の焦点が移っていってしまう。「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、まさに森の論議をしているつもりで、木どころか葉っぱの論議になってしまうことが多いのです。もともと日本人は「大きな議論」をすることが不得手ではないか。憲法は大きな議論の典型ですから、その大きさに戸惑いがあることも事実でしょう。
そういう意味で、調査会が置かれたということと、5年という期間を設定したことは、国民に安心感を与えるためのひとつの戦術だったのかなという気もします。そこから先、重要なことは、議論を集中的に行なうことで国民が認識を共有し、「5年では時間がかかりすぎるから、きちんと議論して2、3年でやろうよ」という方向にもっていけるかどうかでしょう。
そういう観点から調査会を眺めると、心配になってしまうのです。設置されてからもう1年以上たつのですが、その成果が国民に見えてこないからです。議論はされているのでしょうが、マスコミがきちんと報道しない。看板はかかったが中身が一向に見えないのです。これではかえって不信感が増す恐れもあります。
戦後の日本人に欠落しているものは、「国益」を考えることと、「この国のかたち」を考えることです。これを国民みんなで考えていくという意味で、憲法改正に向けた一連の動きは、日本の民主主義に課せられた試練ではないでしょうか。手続き論からいっても、憲法改正は唯一、国民投票が規定されている問題です。最後は私たちが決めるのですから、まさに櫻井さんが提起されたように、私たち自身を信じられるか、という問題に帰着すると思います。
櫻井:マスメディアが矮小化した報道しかしないとおっしゃいましたが、それは憲法に限らず政治も同じです。だから、国民が大きな枠組みのなかで問題の構造を理解したうえでものを考えられなくなっています。私が憲法問題に関して、なるほど、こういう報道をするのかと思ったのは、『朝日新聞』の報道でした。去年の暮れ、参考人として国会に呼ばれ3時間にわたって意見を述べたのですが、次の日の『朝日』の記事は、わずか5行半だったのです。
竹中:3時間半を、たった5行半ですか。
櫻井:私は、人類共通の価値観であるデモクラシーや人道主義を具現化していくために、日本はもっと力を注がなければならないと同時に、日本固有の文化や主権を確立しなければいけない、ということを話したのです。そのとき、社民党の方が「戦後の日本の平和は憲法9条が守った」という趣旨のことをおっしゃったので、「そうではない、日本の平和を守ったのは、軍事力を担保した日米安保条約だった」と答えました。『朝日』は、ここだけを報道しました。
その後、記事を読んだ81歳の元高校教師の女性が『朝日』に反論を寄せられて、その手紙を「なかなかよい内容だ」と判断した記者の方が私に「反論を書いてほしい。2つを併せて載せたい」といってきました。私はその手紙を拝見して、少々驚きました。手紙に書かれていたこととは、少々、事実と異なっていたのですが、そのお便りの内容を『朝日』の記者が明らかにチェックできていなかったことに、意外な感じを抱いたのです。手紙の女性は、憲法9条こそが日本の平和を守ったのであり、その証拠として、日本と同様にアメリカと軍事同盟を結んでいる韓国は朝鮮戦争とベトナム戦争という2回の戦争を戦ったではないかと指摘していました。日本が1度も戦争をしなかったのは、同じ軍事同盟をもちながら、憲法9条があったからだ、というのです。さらに、アメリカが悪の権化といっていた北朝鮮が、韓国の太陽政策に心を開いて金大中と握手をした、だから太陽政策は正しいのだ、と結論づけています。
ニュースの受けとめ方はさまざまであり、手紙の女性のような認識をもつ人がいるのも事実です。しかし、日本をリードするといわれている新聞社の記者は、やはり事実関係のチェックを厳しくしなければならないと思います。大事な問題なので、少々長くなりますが、説明させていただきたいと思います。
竹中:お願いします。
櫻井:まず、米韓軍事同盟があったために、アメリカに強要されて朝鮮戦争が起こったという認識は間違いです。米韓軍事同盟は朝鮮戦争のあとに結ばれているのです。1950年に朝鮮戦争が始まり、53年7月に休戦協定が成立しました。同じ年の10月に米韓軍事同盟が仮調印されて、翌年11月に発効しています。ですから前後関係がまったく逆です。また、やや専門的になるかもしれませんが、当時の資料を読むと、韓国政府は、北朝鮮と休戦協定を結ぶにあたってアメリカに軍事同盟を結んでほしいと要請しているのです。軍事同盟なしに休戦すれば、再び北が攻めてくる危険があると危惧していたからです。
第2は、有名なアチソン演説に関するものです。アメリカ国務長官のアチソンが50年1月に演説をして、「アメリカのセーフティ・ライン(生命線)はアリューシャン列島から日本列島、琉球を結ぶ線である」と発言して、朝鮮半島を除外してしまいました。そこでソビエトも北朝鮮も、韓国に攻め入ってもアメリカは介入しないという判断に至ったというのが、安全保障専門家のあいだでの見方です。ですから朝鮮戦争は、米軍の韓国駐留や米韓軍事同盟があれば、あるいは起きなかった可能性さえあるわけです。少なくとも朝鮮戦争を休戦に導いた要素の1つが、米韓軍事協定だったのです。
ベトナム戦争につしても事実認識が誤っています。50年代の終わりに、韓国の李承晩大統領が、朝鮮戦争では多くの国にサポートされて民主主義を守ることができたから、民主主義を守るために韓国も力を貸したい、といって、南ベトナムに軍事支援を申し出ました。しかし、このときは断られました。また63年に朴正煕大統領とケネディ大統領との会談で、朴大統領が「韓国にはベトナム戦争に適合した、よく訓練された百万の軍隊がいる。ぜひ使ってほしい」と申し出ました。このときも、ケネディに断られています。そういう経過を経て、韓国が正式に参戦したのは65年2月からです。この一連の動きを見れば、韓国が米韓軍事協定を結んだがゆえに2つの戦争に駆り立てられていったというのは誤りだとわかります。
こういう反論を書いて送ったら、この企画はボツになるかもしれないと思っていました。なぜなら、当初の議論が事実誤認から出発していたからです。ところが、双方の意見と主張は掲載されました。(『朝日新聞』2001年2月28日付)。この件に関しては『朝日』自身による事実認識はなされなかったわけです。私はこの点がおかしいと思うのです。読者は、そうした新聞から情報を得ているのですから、考える際に的確な情報を得ているか否かについて、当然、留保しなければなりません。考える素材としての情報に信頼性がおけなければ、自分の頭で考える能力をもった健全な国民が育つのは難しいと思います。その意味でも、憲法問題でマスコミが果たす役割は大きいと実感しました。
9条を誰にも誤解なく伝わるように書き直そう
竹中:われわれがイメージする論争というのは、ある一定の知的ベースを共有し、お互いの論理を共有していて、そのうえで仮説と証拠を積み重ねてはじめて有益な結論が得られます。これが、知的な会話のマナーです。ところが、憲法を議論するとき、この知的なマナーの社会的欠如という深刻な問題に突き当たってしまうのです。
憲法だけではありません。経済についても、私はある有名な雑誌に批判されたのですが、中身はむちゃくちゃな議論なのです。なかには批判のための批判としか思えないような議論もあります。社会的に影響力の強いメディアとのあいだでも、知的ベースの共有化がなされないというのは悲しむべきことです。
憲法9条を考えるときに重要なのは、知的ベースに加えてリアリズムです。リアリズムから考えると9条はやっぱりおかしい。少なくとも、いまのままではおかしい。もちろん、戦争を避ける精神は大事です。しかしそれを生かすためには現実的な仕組みが必要なわけで、それはリアリスティックに考えなければならないのです。
櫻井:憲法に関して交わされてきた以前の論議は、知的ベースを欠いているといってもよいと思います。9条の改正に反対の人も賛成の人も、一部の人々を除いて、多かれ少なかれ同じです。9条の第2項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と書かれています。そして、自衛隊が合憲か違憲かを議論するときに、保守派の人たちは「前項の目的を達するため」というワンフレーズが入っているから合憲だとしてきました。私は『憲法とは何か』を雑誌に連載するとき、これまでの憲法解釈を読んで、自衛隊合憲論から出発しました。ですが、憲法を読めば読むほど疑問を抱きはじめました。しっくりこなくなりました。しっくりこないながらも、「このワンフレーズのなかに、憲法制定までの交渉の歴史的な積み重なりがある」といわれて、やはりこれで合憲になるのかと、自分を納得させながら執筆を進めていきました。
しかし、何十回となく読んでいるうちに、どうしても自衛隊は違憲としか考えられないという議論にたどりついたのです。「歴史的な積み重なり」「解釈の余地」などといわれても、一般の国民はそんなことは知りません。マスコミの世界になりにくい。現行憲法が自衛隊を違憲としているのなら、「日本国憲法は自衛隊を違憲としていますが、いまのままでいいのでしょうか」という問いかけと、「私たちには自衛隊、あるいは軍隊は必要ないのでしょうか」という問いかけにたどりつきます。そこで答えるとすれば、「憲法を変えなければいけない」という結論に自然と行き着くのです。
自衛隊はやはり違憲ではないかという見方に立ったとき、憲法はきわめてスッキリ読めました。議論も何を焦点にすればよいのかが明確になりました。ですから、自衛隊合憲論者も違憲論者も、どちらも知的ベースをきちんとするという意味で、思い込みを捨てて憲法を読むことから始めるべきでしょう。
竹中:「しっくりこない」という表現がぴったりですね。私は、日本で行なわれる「知的レベルの高い」といわれる論議には、この「しっくりこない」という感覚がついてまわるものが多いと思っています。一方には、リアリズムのかけらもないような理想主義的な議論があり、もう一方には特殊な解釈技術に基づかないと正当化できないような論理がある。どちらも胡散臭い。民主主義社会では、誰もが常識的に理解できる知のベースに基づいて理解できないものは間違っていると考えるべきなんです。その意味では、憲法9条は中身の問題以前に、“胡散臭さ”のない、わかりやすい知的議論ができる土壌をつくりあげるという意味をもっているように思います。
櫻井:まさにそうですね。ですから9条には、「日本は責任ある独立国として軍事力をもちます」「侵略戦争はいたしません」「国際社会の平和のために、政治的、外交的、軍事的に協力します」と書くべきです。この国がめざすものが誰にも誤解なく伝わるように書くべきです。ところが、いま国会で自衛隊は、「国内においては軍隊ではありませんが、外国に行けば軍隊だと認められます」といわれているのです。「あなたは日本にいるかぎりは人間ではありませんが、外国に行けば人間です」といわれるようなものです(笑)。自衛隊は軍事力だときちんと認めるが、それに対する歯止めは私たち国民自身がかけるということを決意として盛り込めばいいのです。
人頭税ほど公平な税制はない
竹中:9条以外についてはいかがでしょうか。
櫻井:第3章です。10条から40条まで合計31カ条あり、憲法のなかでいちばん大きな章です。この章を読んでおかしいと思ったのは、「国民の権利及び義務」という章にもかかわらず、「権利」と「自由」がたくさん出てきて、「責任」と「義務」がほとんど出てこないことです。ちなみに、数えてみたんです(笑)、「正」の字を書きながら。すると、「権利」が16回で「自由」が9回、「責任」が4回で「義務」が3回でした。では、いちばん少ない3つの「義務」は何かというと、「教育の義務」「労働の義務」「納税の義務」です。教育の義務は、教育を受ける人のためにもなるものですから、義務といっても権利に通ずるものです。2番目の労働の義務については、いまどき働かずに食べている人はいくらでもいるのですから、これも純粋な義務とはいえません。ならば最後の納税の義務が日本国民に求められる憲法上の唯一の義務ということになります。で、この義務を守っているのかといえば、両親と子ども計4人の標準世帯で課税最低限が368万円です。この所得税をサラリーマンの24%が払っていません。法人税にしても、250万近い法人の65%が赤字で国税を払っていません。事実上たった1つの義務である納税の義務すら守っていない人と法人がたくさん存在するのです。日本には、ほんとうの意味での「義務」がない。義務は果たさなくてもいいですよ、というのがこの憲法です。
竹中:いったい、どんな国民がつくられてしまうのでしょう。
櫻井:赤字法人になったら国税を払わなくてもいいというのは、すごくおかしいと思いませんか?
竹中:ものすごく、おかしい。
櫻井:世界でもっとも金持ちといわれている国で、自分の会社を帳簿上、赤字にして、1銭も国税を払わない経営者がいます。赤字法人の経営者は経営の失敗者なのです。経営者としての能力のない人々に、日本国憲法も、憲法に基づいて定められた税法も、国税を免除して守っていやろうというのが、憲法、税法を貫く価値観です。つまり日本国の根幹の憲法や法律は、日本の経営者に「無能になりなさい、もっとバカになりなさい」といっていることになります。また、この憲法は「自立」の重要性について何もいっていません。「自己責任」についても触れていません。自立も自己責任もない人間は、品性にも欠けるのではないでしょうか。
竹中:憲法の前文、なんかすごい作文だと思いませんか?
櫻井:美しい言葉をたくさん並べていますけれど、じつに読みにくいですね。
竹中:そうなんです。だから前文などいらないという説もあります。前文および3章には理念が書いてありますが、もしかしたら理念はすごくシンプルでいいのかもしれません。クドクド書くのではなくて、われわれは自由で種々の権利をもっているが相応の義務を果たさなければならない。国家とは自立型社会のなかで一定の役割を果たすものである、ということを書くのに、こんなにスペースはいらないかもしれませんね。理念はすごく重要ですが、理念についての論議は、じつはそれほど深まらない。それよりもわれわれが憲法に求めるのは、この国の基本的な「かたち」ですから、三権分立の下の仕組みについて規定した4章以下の部分について議論を深めていく必要があるように思います。
ただ、基本的な理念はきちんと盛り込まなければいけません。先ほどの赤字法人の話に関連しますが、「法人」と私たち「自然人」との関係をはっきりさせるべきです。法人とは企業などに法的な人格を与えることで、納税をはじめとする法律行為をなさしめようということです。一般的な法人として会社を考えると、法人から税金を法人税というかたちで徴収し、同時に個人から所得税というかたちで徴税するのは、どこか間違っています。つまり、会社が儲かった場合には個人の所有する株の値段が上がるのですから、個人に課税すればいい。別の考え方、つまり法人税とは所得税の前払いだという理論に従うならば、社員が税金を払う必要はなくなるわけです。いまは二重取りをしているようなものなのに、どちらの考え方を採用するかという理念が曖昧で不透明です。しかも、儲かった人、頑張った人により多く課税し、頑張らなかった人には課税しないなんて、きわめて不公平です。
櫻井:懲罰的ですね。
竹中:そうです。ならば人格をもっている人には一律に税を課せ、ということになります。ある方との対談で、「いちばんいい税制は何だと思いますか?」と聞かれて、「人頭税でしょう」と答えたことがあります。これほど公平な税制はありません。究極の外形標準税ともいえる。
櫻井:儲けても儲けなくても、存在するものに対して課税するということですね。
竹中:われわれがほんとうに同じように責任を果たし、義務を負うのであれば、税は所得に対して課するのではなく
て、人頭税が望ましいでしょう。こういう理念を明確にした憲法にしてほしい。
大日本帝国憲法は数十種類の草案からつくられた
櫻井:私は、GHQがどういう考えで日本国憲法をつくったかということも、憲法を論じるときの重要な要素だと思います。成立過程は関係ない、という人もいますが、私は、成立過程は、やはり国民みんなが知っておくべきことだと思います。
大日本帝国憲法は、明治政府が伊藤博文をドイツとオーストリアに派遣して公に憲法の勉強を始めてから、7年の歳月をかけて公布されました。それ以前には、右大臣の岩倉具視を特命全権大使として総勢50名の使節団を米欧諸国に派遣し、憲法も含めて先進国の制度を学びました。何年もかけて、政府も国民も国の姿としての憲法について考えました。国民の各界各層で憲法試案が数多くつくられ、主要なものに限定しても65種類の憲法草案が書かれました。市町村も、市民グループも、政党も試案をつくりました。そうした議論の末にできたのが大日本帝国憲法です。
ところが昭和憲法は、GHQが六日六晩、日本人のあずかり知らぬところで決めてしまったのです。しかも、江藤淳さんの『1946年憲法』に詳しいように、GHQは日本に対して30項目にわたる検閲制度を敷きました。すなわち第1にGHQそのものに対する批判を国民に伝えてはならない、第2にGHQの政策に対する批判を国民に伝えてはならない、第3にGHQが憲法をつくっているという事実を伝えてはならない、第4に憲法の内容に対する批判はあいならない。以下、30まで続くのですが、当時の国民はアメリカがつくった憲法だと知らないわけです。平和憲法で、すばらしい理念の憲法だとしか教わらない。そこから生まれた思い込みで、憲法を正統なものと見なす流れがつくられたと思います。
日本と同じ敗戦国のドイツはどうしたか。彼らも米・英・仏に占領されて、憲法を押しつけられそうになりました。しかし、ドイツ人は猛然と反発して、堂々と議論しました。国際法には、一国の主権が侵害されているときに、占領国は被占領国に対して憲法その他、国家の枠組みにかかわる法律に手をつけてはならないという規定があります。それを掲げて連合国と議論し、自分たちの主張を認めさせたのです。ドイツはヒトラーが自殺して中央政府は総崩れになり、中央政府が崩壊して敗戦を迎えました。そこで、ラントと呼ばれる州の知事十数人が集まって連合国と相対したのです。彼ら自身が選んだ専門家委員会に憲法作成を依頼し、日本より2年遅れて1949年に新憲法を制定しました。これが、いまの日本国憲法と共通項のある“平和憲法”なのです。ナチス・ドイツのやったことを考えれば、再軍備をヨーロッパ諸国が許すはずがありません。そこで、最初は軍隊の「ぐ」の字も入らない憲法をつくったのです。その憲法下で5年間、我慢し、54年にはじめて改正しました。その後、朝鮮戦争、冷戦構造の明確化、プラハの春の蹂躙などを踏まえて憲法を大改正していきます。徴兵制をしき、旧ドイツ軍将校を呼び戻して軍の幹部に据え、強力な軍隊をつくりあげました。今日にいたるまで、48回の憲法改正を重ねて独立した主権国としての基盤をつくりなおしました。
それに比べて日本は、押しつけられた憲法を後生大事に守ってきました。中身は、日本人こそは邪悪な存在であるから手も足も縛ったままの状態にしておこうというものです。アメリカの要請で警察予備隊をつくり、今日の自衛隊に発展させながら、それでも軍隊と認めてはならないということです。日本人は自己嫌悪、自己欺瞞、自己疑問視の精神構造のなかに陥ったままではないでしょうか。日独の違いは、自分で考える能力をもった国なのか。考えることをやめさせられたままの国なのかの違いでしょう。
竹中:非常に示唆的なお話ですね。科学史が専門の村上洋一郎さんによれば、科学の真理ですら、時代の文脈とともに解釈が変わるそうです。まして、人がつくった法律は、時代によって意味や役割が変わって当然なんです。金科玉条のようにして手をつけてはいけないとか、まして議論もしてはいけないというのはクレイジーです。
少々不整合でも新しい法律案を通せ
竹中:日本の憲法には、とても異質なものがたくさん書かれています。経済学者として気になるところをいえば、第83条の財政についての規定です。「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて、これを行使しなければならない」、つまり国会には予算の議決権があるのです。そして第84条では、「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする」とある。
じつは、民主主義というのは税金から始まったのです。王様が絶対権限をもつと必ず無駄遣いされ、国は赤字になり、増税に苦しむ国民の反発で国が滅んでしまう。国家滅亡のひとつのパターンでした。そこで、国の支配は王様、あなたがしていますが、税金に関することだけは私たちの意見を聞いて