「 米国トランプ現象の異常を読む 」
『週刊新潮』 2016年3月10日号
日本ルネッサンス 第695回
小欄をお読みいただく頃には、米大統領選指名争いの山場、3月1日のスーパーチューズデーの結果が出ているはずだ。
大統領選の大きな流れをほぼ確定する3月1日に向けて、米主要紙の報道が過熱している。焦点は「トランプ阻止」である。「ワシントン・ポスト」(WP)紙は根っからの民主党支持であるが、2月24日と25日の社説でトランプ氏に関して共和党にメッセージを送った。
「共和党指導者よ、持てる全ての力でトランプを阻止せよ」とまず書き、翌日、「トランプは共和党の怪物、フランケンシュタインだ。彼は今や党を破壊する力を手にした」と警告した。
結局、トランプ氏の勢いを止めるのは有権者だとして、WP紙はトランプ氏に投票しないように呼びかける異例の社説を掲げたのだ。
一方、共和党支持の「ウォール・ストリート・ジャーナル」(WSJ)紙は、2月25日のヒューストンにおけるテレビ討論会で、マルコ・ルビオ氏とテッド・クルーズ氏が初めて本格的なトランプ攻撃に踏み切ったことを、以下のように喜びに満ちた筆致で大きく報じた。
「私の母はホテルのメイドだった」と、(キューバからの移民の子供である)ルビオ氏は語り始めた。
「私の母のようなアメリカ人を雇わずに、君(トランプ氏)は世界中から集めた1000人を超える労働者を雇ったではないか」
ルビオ氏の指摘には、トランプ氏が多くの事業で低賃金外国人労働者を雇い利益を得たことへの批判が滲んでいる。
さらにルビオ氏が、トランプ氏はメキシコや中国の工場で衣料品を生産させていると批判し、トランプ氏が抗議すると、ルビオ氏は間髪を容れず、「作るならアメリカで作れ!」と要求したと、WSJ紙は報じた。そのトーンはまるで胸のつかえがおりたかのようだ。
異常な政治感情
トランプ氏が「ルビオはビジネスのことが何も解ってない」と非難すると、ルビオ氏は「確かに4回も倒産するビジネスのことなんて解らないよ」と、かつて倒産を繰り返したトランプ氏に反論した。
2月初めのアイオワ州での党員集会で、ルビオ氏はクリス・クリスティ氏に攻められて同じ答えを4回も繰り返した。他に答えようがないのか、同じ台詞を言うだけかと散々批判され、ルビオ氏の支持率は一時顕著に低下した。ヒューストンでトランプ氏が右の一件を取り上げ、「4週間前、君は5回(実は4回)も同じ回答を繰り返したじゃないか」と批判すると、ルビオ氏が「5秒前、同じことを5回繰り返したのは君じゃないか」と当意即妙に切り返した。
これらはいずれもWSJ紙が報じた事例だが、ルビオ氏こそ本命候補であってほしいとの同紙の願いが込められた書き振りである。
2月21日、ハーバード大学の政治理論家、ダニエル・アレン氏のWP紙への寄稿は悲哀に満ちていた。民主党支持者の同氏はクリントン氏に投票すると述べたうえで、共和党も十分承知しているように彼女には弱点があり、トランプ氏との一騎打ちになれば勝てる保証はないと、現時点での状況を分析してみせる。だからトランプ阻止の責任は、民主党ではなく共和党にあると氏は結論づける。その視点から氏はいち早く指名戦から撤退したジェブ・ブッシュ氏を評価し、さらに共和党候補者1人1人に撤退を要請し、ルビオ氏の下で力を結集するよう勧める。ルビオ氏には、トランプ氏が指名を勝ちとった場合、党の決定といえども拒否せよと要求している。
どう考えても、米国世論は、一般有権者のそれも、一流紙に寄稿し社説を物す有識者のそれも、尋常ならざる混乱に陥っている。常識ある政治家には許されない暴言や非難を口にし、敵のみを作り、憎しみと対立を煽る一方で、具体的な政策を語らないトランプ氏を巡って、異常な政治感情がアメリカ社会に生まれているのではないか。その一方で、トランプ現象の分析も目につく。
なぜトランプ氏が台頭したのか。第一義的な責任が共和党にあるとの指摘はそのとおりだろう。共和党は比較的低所得の労働者層の不満を吸収できなかった。トランプ氏を軽く見る余り対処せずに放置した。
しかし、もっと大きな理由は2期8年にわたるオバマ政治にある。2月27日の「ニューヨーク・タイムズ」(NYT)紙でロス・ドゥザット氏が、トランプ現象の背景にオバマ氏の「上昇志向カルト」があると指摘したのは思いがけなかった。また、大統領権限を最大限活用して悉く議会を無視する手法は、トランプ氏の手法に対する社会の支持の拡大につながっているとの解釈もある。
日本及び世界から見て不思議でたまらないのは、民主、共和両党候補者のだれ1人、中国やロシアの脅威をアメリカの取り組むべき重要課題としては取り上げないことだ。
積み残される「戦争」
ロシアのシリア空爆ですでに500万人近くの難民が発生している。解決策の見えない難民問題が、米国にも欧州にも排外主義を広げている。世論は極右に引っ張られ、非常に内向きになりつつある。
クリントン氏やトランプ氏をはじめ、民主、共和両党の有力候補者は、ルビオ氏を除いて全員TPPにも反対である。TPPが米国一国の利害を超えて、21世紀の国際社会の基本的枠組みになる制度だと、彼らは認識しないのか。異形の価値観を掲げる中国に対して、日米を中心軸とする長期戦略の土台のひとつがTPPであることに考えが及ばないのか。
そのような中、2月25日のWSJ紙が「米国の新しいリビア戦争」という社説でオバマ外交の決定的失敗を列挙した。「オバマ大統領よ、戦争で、早まった勝利宣言で兵を引くことの苦い結末から学べ」という主旨だ。
オバマ大統領は11年末までにイラクから米軍を撤退させたが、いま再び数千の軍人を送り込まざるを得なくなっている。アフガニスタンからの16年中の撤退予定も、強大化するISの勢力の前に、変更せざるを得なかった。そしていま、「リビア及びその先に展開した米特殊部隊を防護するため」として、リビア攻撃用の米軍の無人機基地をイタリアに確保したというのだ。
オバマ大統領はこの情報が大きく報じられるのを嫌っているが、中途半端な対策の負の遺産として、これらの中東及びアフリカにおける「戦争」は次の大統領に積み残されることになる。
そうした課題をトランプ氏に任せるのは、想像するだに不安である。国際情勢が混乱に向かうことを前提に、私たちは日本に出来る限りの備えを急がなければならない。