「 私たちは「日本」を守り続けられるか 今こそ福澤諭吉の姿勢に学びたい 」
『週刊ダイヤモンド』 2019年4月13日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1275
春爛漫の日、新元号「令和」が発表された。出典は1200年前の『万葉集』だ。長い歴史で初めて漢籍から離れ大和の文化から元号が生まれたことを多くの人々が好感した。
この悦びは、古(いにしえ)の時代、私たちが中国から文字を学び、その制度のよき点のみを取り入れて国造りをしたこと、その先に日本独自の価値観に基づく大和の道を歩んだことを改めて認識させてくれる。
歴史の営みを振り返るとき、私たちの胸にはかつての中国への感謝と共に、中華の文明に埋没せず、大和の道を選んだ先人たちへの敬愛の情が生まれてくるだろう。
大和の道を最も端的に表現しているのが『万葉集』である。天皇、皇族から、農民、兵士まで、階層や男女の別なく歌を詠み、それらをきちんと記録して、再び言う、1200年以上、保持し続け、今日に至る。こんな国は他にない。この新しい道を歩み続けて行く先に、大きな可能性が開けるのではないか。歴史の大潮流における画期の一歩が踏み出された予感がする。
世界中が政治力学の根本的変化の中にあるいま、先人たちが大和の道を築くことで立派な国造りを成功させたように、私たちはなれるだろうか。「日本」を守り続けていけるだろうか。そんな想いで福澤諭吉の著作を読み直している。約1世紀半も前、先人たちはどのように開国と政治体制の大転換、列強諸国の脅威などの大波に立ち向かい、克服し得たのだろうか。
当時の世論形成の重要な道標を示し続けた福澤は、世界の事象を極めて具体的かつ細かい観察眼でとらえている。事実を厳格に認識し、冷静に論じ、事実抜きの論評はしていない。
たとえば明治12(1879)年8月に発表された『民情一新』である。明治12年にはまだ帝国議会も開設されていない。帝国議会の誕生は明治23(1890)年である。
福澤は書いている。
西洋との接触によって日本に「文明開化」がもたらされたと世論に流布されているが、事実を把握しておかなければ大いに誤ちをおかすだろうとして、「西洋の理論決して深きに非ず、東洋の理論決して浅きに非ず」だと、明確に断じている。
そのうえで、ではなぜ、西洋の文物が「文明開化」を促すとしてもてはやされるのかと問うている。それは西洋では文学も理論も実用に結びついているからだと福澤は説く。つきつめていくと国全体に交通の便が開かれ、人々は物理的精神的に解かれているからだと言うのだ。
「人心が一度び実用に赴くときは、その社会に行われる文学なり理論なりは、皆、実用の範囲を脱す可らず(実用に耐えなければならない)」
福澤は冷静に洋の東西を比較し、日本が手掛けるべきことを具体的に挙げたのだ。具体論が基本にあるために、否定するのは難しい。『兵論』、即ち国防論についても同様だ。
明治15(1882)年の『兵論』は立国に兵備の欠かせないことから書き出し、列強諸国の人々、歳入、陸軍人、陸軍費、軍艦、海軍費を比較した。当然の比較だが、福澤は単なる数字上の比較で終わっていない。
軍人1人が守る国民の数はフランスが70人、ロシア110、イタリア130、オランダ57、イギリス230、ゲルマン(ドイツ)100、日本480だなどの比較に加えて軍人の給料、それで賄いうる食事の質までも細かに論じた。日本の兵の給与、1日6銭では「鮮魚肉類」は口にできず、肉食の多い列強諸国や支那と較べて、日本の軍人は体力面で劣るなどと、説得力のある説明が続く。
事実に基づいた視点は研ぎ澄まされている。このような姿勢をとりわけいま、学びたいと思う。