「 中国の膨張主義の背景に強い劣等感 」
『週刊新潮』 2016年9月8日号
日本ルネッサンス 第719回
意外なことに中国人には強い被害感情がある。彼らは度々、「奪われた」と語り、力をつけたいまは取り戻す時期だという。深層心理に澱のように蓄積しているこの強い被害者意識が、中国を反撃としての膨張主義に駆り立てる。習近平国家主席の「偉大なる中華民族の復興」を支える基盤にも同様の要素がある。
中国人の心理を文化人類学者の楊海英氏は「コンプレックス」だと分析する。コンプレックスの塊りとしての心理を歴史的背景の中でとらえることなしには、現在の中国の行動を理解することはできない。
楊氏の近著、『逆転の大中国史ユーラシアの視点から』(文藝春秋)はその意味で中国理解の刮目すべき手掛かりとなる。南モンゴルで生まれ、中華世界で成人し、中華思想の下で教育された氏の「少数民族」の論考は、自身の体験、モンゴル民族としての体験、文化人類学者としての幅広いフィールドワークに加えて、先人の研究に学んだ知見に裏打ちされており、強い説得力をもつ。
氏は著書で断じている。
「コンプレックスに囚われすぎているために、中国はいつまでたってもきちんと近代とむきあい、自分のものとすることができない」「この劣等感は、われわれ(日本人やモンゴル人)が想像する以上に根深い」
政策から外交姿勢まで含めて、全身で中華思想を発信しているのが習主席だ。だがこの中華思想こそ、事実を見る際の彼らの目を曇らせる。アヘン戦争以降の清朝の没落も、近代における日本の台頭も、すべて「漢民族が諸民族をリードし、一致団結して抵抗したことによって、日本帝国主義と西洋列強をしりぞけた」「悪いのはみんな外国だ」という話にしてしまう。そうすれば、自らの敗北を省みる苦痛は回避できるが、歴史から何も学べずに終わる。
彼らは真に歴史を見詰めることもなく、中国中心の心地よい物語にどっぷり浸って満足し、中国人の論理を「自他の見境も」なく押しつける。これが中華思想の本質である。
歴史の復讐
彼らが華々しく世界に提唱したアジアインフラ投資銀行(AIIB)も「一帯一路」の経済発展構想も、アフリカ諸国への年来の巨額融資も中華思想にその根源を発するものだが、一連の働きかけで中国が真に国際社会に向かって開かれ、諸国に歓迎される国になるかといえば、そうではない。中華思想はむしろ、彼らの足かせになっている。古代以降、歴史の中に中国を置いて見れば、自己中心史観の中国は常に世界との相性が悪かった。これからの彼らは必ず「歴史に復讐され」ずには済まないだろうと楊氏は結論づける。
では中国とは一体何か。漢民族とは一体誰か。この点を、氏はユーラシア大陸全体を眺めてつき詰めていく。本書冒頭の「『シナ=中国』と『ユーラシア東部』の国家の変遷表」が雄弁に「中国」、正しくは「シナ」の実態を示している。
紀元前21世紀から400年余りシナに君臨した「夏」から始まり、私たちが暗記させられた「殷、周、秦、漢、三国、南北朝、隋、唐、宋、元、明、清」などという中国王朝のつながりの中で、漢民族の王朝は前漢・後漢の405年間と明の276年で計681年にすぎない、宋はシナを部分的に支配した地方政権にすぎないというのが、氏の指摘だ。
「中国5000年の歴史」或いは「4000年の歴史」と言うが、それは決して漢民族の歴史とイコールではなく、「古い漢人(プロトシナ人)」は184年の黄巾の乱でほぼ消滅した。
では、私たちが漢民族と呼ぶ人たちの正体は一体誰か。そもそも漢民族は自らを「民族」とはとらえず、「漢人」だと表現するという。自らを「漢民族」ととらえない理由は、彼らには国家や共同体の概念が非常に希薄だからであり、それが国家と民族がほぼ同一の日本もしくは日本人との大きな相違である。
また漢人にはユダヤの人々のような宗教による絆もない。楊氏に言わせれば、「中国語」さえ漢人の共通語ではない。現在の中国語は1919年の「五四運動」で起きた言文一致運動の中で、北京語が標準語とされ、それを中国語と呼んでいるだけで、中国語、即ち北京語が漢人をつなぐ共通の要素ではないというのだ。
国家、共同体、民族、宗教、言語のいずれも、漢人の漢人たる共通基盤ではない中で、限りなくバラバラになりがちな彼らをひとまとめにする強力な共通項となったのが漢字だった、と見るのは楊氏だけではない。だが漢字を用いる言語体系でひとつのまとまりとなり得ても、そこから国家や共同体の概念に基づく社会が生まれるわけではない。現代中国人が共産党支配の下で個人の利益を国家の命運に優先させ、全てをカネで決めるかのような行動様式を取りがちな理由もここにあるのではないか。
一方で漢民族が支配した歴史がわずか700年にも満たない事実を踏まえて、「シナ」が生み出した輝ける文化の創造主を探してみると意外な事実が判明する。
「横に分ける」
シナの優れた文化といえば、日本人は恐らく唐を思い浮かべる。わが国は遣唐使を派遣して、彼らから大いに学んだ。現代中国でも一時期「唐王李世民」というドラマが大人気で、「唐は漢民族の歴史で最も華やかな時代」と国民に教育されていた。しかし、近年の歴史研究によって、唐は漢人ではなく「鮮卑拓跋(せんぴたくばつ)人」が樹立した王朝であることが証明され、その事実が知れ渡るに従って、中国共産党は唐を褒めそやさなくなったそうだ。シナの歴史で唐の次に華やかな時代は元であったが、元はモンゴル人の王朝だ。結局、現代中国人には漢民族による、誇るに足る輝かしい歴史は存在しないと、楊氏は結論づける。
氏の著書で私が最も啓発されたのはユーラシア大陸を「横に分ける」という視点である。日本の研究者がカザフスタンやキルギスタン、パミール高原、天山山脈とアルタイ山脈、サヤン山脈をつなぐ線を軸にユーラシア大陸を縦に分けて考えがち(どうぞ、地図を見てほしい)なのに対して、モンゴル人、ロシア人、中国人は横に分けて考えるというのだ。
横の境界線の第一が古代シナ人の作った万里の長城である。万里の長城から北極圏までと、万里の長城から西のヒマラヤ山脈、イラン高原、さらに黒海南岸をつなぐ横の線で分割して思考するという。非常に斬新かつ示唆に富む指摘ではないか。
いま大きく動く世界の中で、日本は間違いなく正念場にさしかかっている。勝負のし所は、中国との向き合い方、中国に優る日本の価値観を以てどこまで世界への貢献を具体化していけるかである。中国の実態をよりよく知り、己を知るためにも、楊氏の著書は必読であろう。