「 日の丸が国旗であることの背景説明を政治家は尽くせ 」
『週刊ダイヤモンド』 2000年12月9日号
オピニオン縦横無尽 第375回
過日、評論家で大学教授の松本健一氏に取材していた時のことだ。
話題が本題から離れて、なぜ、日の丸が日本の国旗かという話になった。氏の説明があまりに説得力があったため、改めて紹介してみたい。以下、松本氏の話のまとめである。
京都に今も残る五条大橋は、源義経が武蔵坊弁慶をやっつけた場所で観光名所のひとつになっている。
“京の五条の橋の上 大の男の弁慶は長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる/牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へ上がって手を叩く”
子どものころに歌ったこの歌にある牛若丸の扇は日の丸の扇だったというのだ。義経はそのまま壇ノ浦の戦いに出ていくが、その時源氏が平氏に対して掲げた旗は白地に赤の現在の日の丸だった。一方の平家が掲げていたのは、赤字に白の日の丸だった。
「源平合戦で平家が勝っていれば、日本の旗は赤字に白の日の丸になっていたかもしれないのです」と松本氏はおもしろそうに語った。
源氏の後に出てきた武将たちは、織田信長も徳川家康もみな自分たちは源氏の流れを汲んでいるという意識を持った。そして彼らは戦いのときには必ず日の丸の旗を掲げたのだ。たとえば長篠の合戦のときである。
長篠の合戦は1575年5月21日早朝から始まった。織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼と戦い、壊滅的な打撃を与えた。武田方の騎馬隊は信長側の設けた柵に阻まれ、かつ柵のなかから撃ち出された大量の鉄砲によって敗れ去ったが、このあまりにも有名なシーンは、歴史ドラマのなかでもよくとりあげられるシーンだ。
「この時、信長も家康も家紋をあしらった自分の旗を持っているのですが、連合軍として戦うときは日の丸を掲げていました。対する武田側もまた、日の丸を掲げていました。つまり日本を支配するのは自分たちだと思ったときには、日本の国印、日本全体の国の印として、日の丸のイメージが武将の頭のなかに入っていたのです」
松本氏はさらに、外国に対するときも日本人は日の丸を掲げて行うという、常識があったという。江戸中期に淡路島に生まれた高田屋嘉兵衛は、廻船業を営み、今私たちが北方領土と呼ぶ択捉や国後島のほうまで漁場を開いた人物だ。嘉兵衛は松前や樺太で交易を続けたが、外国と交渉する場合には、徳川の旗ではなく日の丸の旗を掲げた。
1853年に米国からペリーがやって来たとき、日の丸は日本側の総船印として掲げられた。ニッポンを代表する者の旗印が日の丸だったのだ。
「源平の古から、1000年の文化の流れがあって、1853年に米国が開国を要求してきたとき、結果として幕府が日の丸を日本の旗として定めたのです。日の丸は日本の文化のなかから、ごく自然に生まれ育ったのです」と松本氏。
このような日の丸の成り立ちを識ってみれば、たとえ一時期、それが侵略の非難を受けている戦争に使用されたといっても、日の丸が日本の国印、国旗であることを受け容れることを、多くの人が納得できるのではないか。逆にいえば、この種の説明なしに、法律によって日の丸を国旗とすることにどれだけの意味があるかということである。あの時、野中広務幹事長らは、天皇陛下即位10周年記念に合わせるために、日の丸と君が代を合体化させて法案化した。そして彼らが国民に対して行った説明は、「それが日本の文化だから」というものだ。
だが、明らかにその種の説明だけでは不十分なのだ。納得しない人は、おそらく今でも納得していないに違いない。政治家であればこそ、自分の主張の根拠を国民に語りかけるべきだ。