「 今年も庭に姿を見せてくれた生き物に里山の夢を重ね楽しむ 」
『週刊ダイヤモンド』 2012年7月14日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 944
年ごとに、里山への憧れが強くなる。南向きの山裾の民家に住み暮らして、湧き水を引いて煮炊きをし、喉を潤す。湧き水が山の斜面を小さな流れとなって走るところには芹や山葵を植えて、収穫する。山葵の葉のおひたしは、格別の味だ。
家の中には必ず囲炉裏を作り、裏山で拾い集めた薪で暖を取る。恵みの源である山は大事に手入れして、春には山菜、秋にはきのこを収穫して、皆で食べる。山の一部を竹林にして、季節には友達と筍を掘り、筍ご飯を炊く。筍を皮ごと丸焼きして山葵醤油で楽しむ。天ぷらもよし、煮付けもよし、筍尽くしの食事には、自家製の梅酒と地元の美酒が欠かせない。
大根が育ったら軒下に干して漬物にする。渋柿が実をつけたら皮をむいてすだれのようにして、これまた軒下につるして、甘い干し柿に変身させる。
こんな暮らしこそ幸せだろうなぁと、里山暮らしへの憧れは募るばかりだ。現実はしかし、原稿を書いて、というより書かせていただいて、身一つでは足りないほどの仕事を与えていただいて、里山を訪ねる時間もなさそうだ。そこでやるべき仕事があることに感謝しながら、私は書斎から見える小さな庭に、里山の夢を重ねて楽しむ。
昨日の朝、庭に出て、お茶を飲んでいたときだ。左目の端をパタパタパタと、おぼつかないリズムでトンボが飛んだ。子どもトンボだ! 大人トンボなら空気を切って美しく飛翔する。いまにも落ちそうに頼りなく飛ぶのは、幼いからに違いない。水の中から出てきて、ヤゴからトンボに変身してまだいくらもたっていないはずだ。私は、彼が止まった百合の花に近づいて、羽休めしている姿をそっとのぞいた。案の定、尻尾のあたりがまだ黄色い。
それにしても百合の花びらの上で休憩するとは、なんておしゃれなことだろう。そう思うとおかしくもあり、うれしくもあり、幸せな気分に包まれた。幼いトンボはしばらくすると、今度はつぼみをたくさんつけた萩の枝へと飛び移った。本当に風流なトンボだ。
今年もまた、小さな庭を舞台に生き物たちが変わらぬ姿を見せている。昨年は見かけず、どうしたのかと心配したヘビが、今年は2匹も現れた。5月末の週末だった。土曜日に20センチメートルほどのが、翌日曜日にはさらに小さなのが姿を見せた。前日のほうが大きかったから、2番手は、1番手よりも少し後に生まれたはずだ。2匹も、連続して出てきたのは今年が初めてだ。
早速、隣接する氷川神社の宮司さま、惠川義昭氏にご報告した。宮司さまは必ずしもヘビがお好きではないが、それでも、神社の森で生まれた生き物の出現に喜んでおられた。
実は私だって好きではない。けれど、自然界は人間だけのものではないのであり、小さな生き物も含めて皆共存していけるようであってほしい。それが穏やかな日本の自然の本来の姿である。だから、好きではないからといって、とりわけ嫌うことのないように、またむやみに怖がることのないように、自分の気持ちを制御するべく努めている。彼らだって自ら望んであの姿になったわけでなく、むしろ、彼らのほうが人間を恐れているはずだ。そう考えて、昔の人が言い習わしてきたように彼らは、「その家の守り神」と思うことにしている。すると、不思議に、嫌いな気持ちが消えていくのだ。
都心とはいえ、神社の森は深く、たくさんの守宮(やもり)がいて、わが家にもやって来る。庭で宮司さまと話しているときにもやって来た。
「守宮です」と言うと、宮司さまが「あれはトカゲです」とおっしゃった。
そう言われれば守宮よりは顔も鋭い感じだ。手足の先も守宮のように丸い吸盤になっていない。彼は鋭い目でこちらを眺めながら悠然としている。私は思わず心の中で、人間相手になかなかの度胸じゃないかと、ほめてやった。